別れの聖堂
エリザベッタは聖堂にいた。そしてカール五世の墓の前に来た。
「偉大なる先王よ」
彼女はその前に跪いた。
「貴方はこの世の全ての空しさをお知りになられています」
カール五世は最後の最後で裏切られ神聖ローマ帝国の皇帝を退いている。
「そして今はこの僧院へ永遠の平安の中におられます」
顔を上げた。
「私も何時か、いえ近いうちにそのお側に」
既にこの世での幸福は諦めていた。
「あの美しき祖国を離れ今はこのスペインにおります。しかし」
言葉を続ける。
「フォンテブローでの出会いを忘れたことはありません!」
カルロとのはじめての出会いのことが脳裏に甦る。
「あの森で私達は永遠の愛を誓った。しかしそれは叶わなかった」
彼は王の妃となった。
「このスペインの美しい太陽も花に囲まれた庭も私の心を癒してはくれない。私をこの世に繋ぎとめる絆ももう消えてしまった」
絆、それは心の希望であった。
「今の私に残された仕事は只一つ、それが終われば私は・・・・・・」
そう言ってうなだれた。
「神の御許へ旅だちとうございます」
そして立ち上がった。そこにカルロがやって来た。
「ロドリーゴの言った通りだ。本当にここにいるとは」
「来たのね」
エリザベッタはカルロに顔を向けた。
「はい、旅立つ前に会いに来ました」
「これが永遠の別れ」
エリザベッタは強い声で言った。
「それは誓っています。心の中にいるロドリーゴと共に」
カルロの声も力強いものであった。
「決められたのですね」
「はい」
カルロは頷いた。
「フランドルの地に彼の身体は眠ります。そして心は永遠に私と共に」
「彼も喜ぶことでしょう」
ロドリーゴの遺体は今棺の中にある。カルロはそれを既にフランドルへ向かう船の中に入れておいたのだ。
「彼の身体はフランドルの土となります。その墓はどのような王の墓よりも素晴らしいものとなるでしょう」
「公爵・・・・・・」
エリザベッタはそれを聞くとロドリーゴが全てを賭けたことが報われたと感じた。
「その周りを美しき花々が取り囲みます」
「まあ・・・・・・」
「そして彼の墓を作った後私はフランドルを生まれ変わらせます」
カルロは顔を上げた。上を見た。
「炎によって焦がされた空、血に濁った川、廃墟と化した町や村」
彼の脳裏に荒れ果てたフランドルの地が浮かぶ。
「それを全て変えます。フランドルの民達は私が救います」
「それこそが公爵の望み・・・・・・」
「そうです、貴方は私がフランドルで為すことを伝え聞いて下さい」
(それは神の御許で)
エリザベッタは心の中でそう呟いたが口には出さなかった。
「貴方とはこの世では永遠の別れ」
彼女は言葉を替えてそう言った。
「ですが別の世界ではまたお会いしましょう。今度はこの世の惨たらしい運命などない心優しき世界で」
「はい」
カルロはまた頷いた。
「私達はまた会うでしょう、そしてその時こそ永遠の愛を結ぶ時」
「ええ」
「また会う時まで」
二人は手を取り合った。
「永遠のお別れを」
そして手を離した。それが二人の別れであった。
カルロは聖堂を出ようとする。そして行く先はフランドルだ。
だがその前に影が現われた。不吉な影達であった。
「ム・・・・・・」
カルロはその影達を見て腰の剣に手をかけた。
それは異端審問官達であった。彼等はカルロを取り囲んだ。
「ロドリーゴの仇か」
彼の目が光った。
「望むところだ、貴様等だけは神の裁きを受けさせてやる」
そして斬りかかろうとする。だがその時だった。
「待て」
そこであの声がした。
「あの時言った筈だ」
「父上・・・・・・」
フェリペ二世が姿を現わした。
「フランドルに行くとなれば命はないと」
「貴方はまだそんなことを・・・・・・」
カルロは顔に怒りをあらわさせた。
「言うな」
王は一旦カルロから顔を外した。
「これは王としての勤めなのだ」
そして再びカルロを見た。
「ロドリーゴをなくしておいてまだそのようなことを!」
「言うな!貴様には所詮王冠の重さがわからんのだ!」
「そんなものわかりたくもない!」
カルロは言い返した。
「ロドリーゴがその為に命を捨てる位なら!」
「クッ・・・・・・!」
王は言葉を返せなかった。ただカルロが睨むのを睨み返すだけであった。
「陛下よ」
そこで別の声がした。大審問官である。
「今こそ王の尊厳を確かなものにする時ですぞ」
彼はやはり左右を他の者に支えられながら出て来た。
「そのような者の力を借りなければいけない王冠なぞ・・・・・・」
カルロは大審問官を睨みながら言った。
「そんなものは本当の王冠ではない!」
「貴様は何もわかっておらんのだ!」
王は息子に対して叫んだ。
「貴様はスペインを、ハプスブルグを何一つとしてわかってはおらん。フランドルのこともな」
「いや、違う。私は・・・・・・」
カルロはそれに対し首を横に振った。
「どう違うのだ!?」
王はそれに対し問い詰めた。
「答えてみよ」
「それは・・・・・・」
カルロは言葉をとぎらせた。
「言えぬか」
「いや、言える」
カルロは再び言葉を発した。
「私の王冠、それは・・・・・・」
カルロは言葉を続けた。
「スペインだけ、旧教の為にだけあるのではない、フランドルにも、新教にもあるものなのだっ!」
「やはりわからぬか」
わからないのは王なのだろうか、カルロなのだろうか。それはこの場にいるどの者にもわからなかった。だが王はカルロを指差して言った。
「かかれ」
その言葉に従い異端審問官達は武器を取り出した。
「来たな」
彼等は建前上殺生を禁ずる僧侶であるので剣や斧は手にしていない。だがその手にはメイス等がある。
そして武器はそれだけではなかった。彼等の後ろには神という権威さえあった。カルロはそれを見た。
「貴様等の言う神とは」
異端審問官達の無気味な眼を見た。酷薄で血に餓えた眼だ。
「悪魔だっ!それは貴様等の心の中にいる!」
「言うかっ!」
大審問官は叫んだ。彼の逆鱗に触れてしまったのだ。
「捕らえよ、いや、この場で神の裁きを与えるのだ!」
王の声よりそれは強いものであった。
「これで終わったな・・・・・・」
王は息子から目を離した。全ての終わりを悟った。
「ああ・・・・・・」
エリザベッタもだ。彼女も目を伏せた。
「私は死ぬわけにはいかない」
カルロは迫り来る異端審問の黒い服を前に言った。
「私の中にいるロドリーゴの為に」
そして剣を振るう。異端審問の者達を斬り伏せていく。
「やりおるの」
大審問官は剣が人の身体を切る音を聞いて呟いた。
「だがそれも限度がある」
その通りであった。カルロは一人、だが異端審問の者達は何人もいるのだ。
「一人で神にあがらうその愚かさ、身を以って知れい!」
閉じられていたその目が開いた。眼球は既に白濁している。だがそこには明らかに何かが映っていた。
(それはもしや・・・・・・)
王もまたカルロと同じことを思った。この老人が見ているもの、それは神ではなく神の姿をした悪魔なのではないかと。しかしそれを口に出すことは出来なかった。
(それがわしの限界か)
王はそれを痛感した。しかし目の前の自身の子はそれに捉われない。
(惜しいことをした)
カルロは果敢に剣を振るう。
(そうとわかればわしの手の届かぬところで思う存分その力を養わせ使わせてやったものを)
彼は後悔した。そして唇を噛んだ。
(わしのように王冠を被りながらもそれに支配されるのではなくその王冠でもって全てを乗り越えられたのに。その者をわしは今消してしまおうとしている)
カルロの剣が鈍ってきた。もう何人斬り伏せたことだろうか。異端審問の者達は彼を取り囲んだ。
「さあ、もう逃げられんぞ」
大審問官はほくそ笑んだ。彼は耳で全てを感じていた。
「潔く裁きを受けるがいい」
「クッ・・・・・・」
肩で息をしている。もう限界であった。剣も血糊で真っ赤となっている。
「カルロ・・・・・・」
王もエリザベッタも顔を向けた。見ないではおれなくなった。
「まだだ」
彼は言った。
「まだ私は倒れるわけにはいかない。ロドリーゴの為にも」
そして剣を振るう。しかしその動きはもう今までの冴がなかった。
「無駄だ、諦めよ」
大審問官はその剣の音を聞いて言った。
「全ては裁かれる時が来たのだ」
「まだだ、フランドルへ行くまでは・・・・・・」
剣で切れなくなると今度はそれで殴った。あくまで戦うつもりだ。
「させんっ!」
剣で一人を叩いた。だがそれも遂に折れた。
剣の折れた半分が中空を舞った。そしてそれは回転し床に落ちた。乾いた音を立てて転がる。
「折れたか・・・・・・」
カルロはそれを見て呟いた。
「これで終いだ」
王は言った。エリザベッタの顔が蒼白になる。
「さあ、今までよく手こずらせてくれた」
大審問官はその音が収まったのを聞いて再び口を開いた。
「今こそ裁きを受けるがいい」
カルロを囲む輪が狭まった。
「まだだ!」
しかしカルロは諦めない。その両腕を振るう。
「この身が朽ちようが私は諦めない!」
「まだ諦めぬか」
大審問官は舌打ちした。
「殺してしまえ!」
カルロを指差して言った。だがカルロは彼等を投げ飛ばし抵抗を続ける。
「これも公爵への想いか」
王はそれを見て言った。カルロを支えているものの強さをその時知った。
だがカルロも限界にきていた。やがてメイスが掠った。
「ウッ・・・・・・」
彼の頬を血が伝う。その時だった。
「待つがいい」
カルロの後ろの聖堂の中の鉄格子が開いた。
「何」
その声にまず反応したのは王と大審問官であった。
「鉄格子が開いた・・・・・・!?」
一同は動きを止めた。中から再び声が聞こえてきた。
「それまでだ」
そして鉄格子の中から誰かが姿を現わした。
「なっ!」
それを見た王の顔が蒼白となった。
「まさか・・・・・・」
そこにいるのは王と瓜二つの顔を持つ男であった。面長で黒い瞳は丸い。鷲鼻を持ち厚い唇の下は突き出ている。髪は黒くその上に金の王冠を被っている。黄金色の甲冑と白いマントに身を包んだその者を知らぬ者はこのスペインにはいなかった。
「父上・・・・・・」
彼が父と呼ぶその男、彼こそカール五世であったのだ。
「まさか本当にここにおられるとは・・・・・・」
エリザベッタも異端審問の者達も驚愕した。カルロはその前に立っていた。
「カルロ、我が孫よ」
彼はカルロに近付いて言った。
「そなたの幸福、そして王国はこの世にはない」
彼は厳かな声でそう言った。
「そなたがいるべき場所はここではない。私がそなたが本来いるべき場所に誘おう」
そう言うとカルロの身体をその白いマントで包みにかかった。
「来るか」
「はい・・・・・・」
カルロはそれに対し頷いた。
「ならば来るが良い。そなたが愛する者もそこにいる」
「ロドリーゴ・・・・・・」
「そうだ」
それが彼の最後の言葉であった。彼の身体は祖父のマントに覆われた。
「では行こう。神のおわすあの世界に」
カール五世は静かに言った。そしってそのままゆっくりと後ろに下がる。
「これは一体どうしたことじゃ・・・・・・」
大審問官は驚きの声で呻いた。
「皇帝陛下がこの世に現われるなどと」
「奇跡なのか・・・・・・」
王は呻いた。その間に王は聖堂の自らの墓所の中に消えていた。
「さらばだ」
それが最後の言葉だった。王の気配が消えた。
「父上はカルロを・・・・・・」
王は呟いた。その時鉄格子が閉じられた。
鉄の音がした。そして全てはその中に消えた。
「・・・・・・・・・」
王は沈黙した。だがゆっくりと口を開いた。
「これが神の、そして父上のご意志だ」
「先王の・・・・・・」
我に返ったエリザベッタが言った。
「そうだ、カルロはそれにより救われた」
王は静かに言った。
「しかし・・・・・・」
ここで言葉を濁らせた。
「我々はその救いを得られはしない」
それが全てであった。
「偉大なる皇帝、威厳あまねきあの方も今はただ神の御許に」
何処からか声がした。それはそこにいるせべての者の心に響いた。
鐘が鳴った。カルロとロドリーゴに向けられた祝福の鐘であった。
ドン=カルロ 完
2004・5・9
これにて、一つの物語は幕を閉じる。
美姫 「面白かったわね」
うんうん。でも、ちょっとカルロやエリザベッタがね。
美姫 「そこがまた一つの面白いところなのよ」
まあ、確かにそうなんだけどな。
美姫 「本当に面白かったですよ〜」
ありがとうございました〜。