第三幕 宮殿と大聖堂
フェリペ二世はマドリードを首都と定めていた。平凡な一地方都市であったこの街を首都としたのはこの街がスペインの中央に位置していたからであった。彼はそこからスペイン全体に道を拡げ隅々まで見渡そうと考えたのである。
その彼が築いたのがエスコリアル宮殿である。雄大なバロック様式の宮殿であり壮麗ではあるが装飾は少ない。それは彼の趣向をよく現わしていた。
中には農園や果樹園もある。これは修道僧達によって経営されていた。図書館や礼拝堂もあった。王宮であると共にカトリックの厳格な修道院でもあったのだ。
十六世紀にイエズス会が創設されている。彼等は厳格にして禁欲的な教義を信仰する旧教徒達であった。バチカンに絶対の忠誠を誓いその教義を護ることを誓い腐敗を憎悪した。彼等は旧教を世界各地で布教していたが日本にもやって来ている。フランシスコ=ザビエルである。彼等の指導者であるイグナティウス=ロヨラはここを拠点としていた。
この宮殿で今宴の用意が為されている。何やら国王の戴冠式のようだ。
彼はスペイン王であるが他にも多くの役職を持っていた。ポルトガル王を兼ねていた時もある。彼の地上での役職は実に多いものであったのだ。
ここは庭園である。緑の草の絨毯が敷かれ左右には色とりどりの花々が咲いている。奥にはアーケードが見える。そしてその下に彫像と泉がある。天井はなく夜空が見える。雲一つなく星と月が見える澄んだ夜空であった。
「さあさあ急いで」
女官達がその中をせわしなく動いている。
「宴は待ってはくれませんよ」
「そうそう、夜が明ける時は決まっているのです」
エリザベッタはその中に優雅に姿を現わした。彼女は女官達を従えそれを見守っている。
「皆の者、頑張って下さいね」
彼女は女官達に対して優しい声をかけた。
「陛下は今は主に対し感謝しておられます。この度の戴冠に際して」
「王妃様も行かれるのですね」
「はい、これから」
王妃はそれに対して答えた。そこにエボリ公女が姿を現わした。
「王妃様、よろしいのですか?」
彼女は王妃に対して言った。
「何がですか?」
王妃は答えた。
「宮廷のこともありますし。それに殿下も心配なされますよ」
その名を聞いた時彼女は一瞬顔色を変えた。だがすぐに元に戻した。
「私も行かなくてはならないでしょう。王妃なのですから」
「そうですか。それではお気をつけて」
「有り難う」
こうしてエリザベッタはその場を後にした。女官達もそれに続く。
「さてと」
公女は彼女が去ったのを見届けると一人に暇そうな女官を見つけた。
「ちょっと」
そして彼女に対し声をかけた。
「何でしょうか?」
「少し頼みごとをしたのだけれど」
そう言って金貨を数枚手渡した。
「この手紙を殿下に」
そう言って懐から取り出した一枚の手紙を彼女に手渡した。
「わかりました」
彼女はそう言うとその場を後にした。
「これでよし」
公女はそれを見届けると満足気に笑った。
「これで殿下は私のものに」
彼女は夜空を見上げながら呟いた。
「あの繊細な殿下の御心は私のものに。暗闇の優しいヴェールに殿下をお包みして恋に酔わせて差し上げるとしましょう」
そう言うとその場を後にした。そして皆準備を終えその場を後にした。
その庭園の外れである。もう誰もいない。公女はそこに一人で隠れるようにしてやって来た。
「誰もいないわね」
辺りを見回す。確かに誰もいない。
その場にやって来た。そして遠くから誰かが来るのを見た。
「あれは」
陰に身を隠した。覗き見るとどうやら若い男のようだ。
「来たわね」
彼女は微笑むとその場にそっと現われた。わざと闇の中に影だけ見えるようにして。
「月桂樹の下にある泉のほとりか」
彼は庭園の中を見回しながら呟いている。
「ここだな」
来たのはカルロである。彼は不安げな様子で辺りを見回している。
「まさか彼女の方から私を呼んでくれるとは」
嬉しそうである。だがそれ以上に不安なようだ。
「この前まであれ程頑なだったというのに」
「まあ、殿下も私のことを」
彼女はそこで仮面を取り出した。
「恋は時にはこうした道具も使うもの」
そしてそれで顔を隠した。そこでカルロが声をかけてきた。
「愛しい人よ、そこにおられたのですね」
彼女の後ろ姿を認めて喜びの声をあげた。
「よくぞ呼んで下さいました」
「そんな、思ったより積極的なのね」
公女はカルロの言葉に頬を赤らめさせた。
「まさか貴女の方から手紙をよこして下さるとは」
「殿下ったら・・・・・・。それなら早く仰って下さればいいのに」
彼女は胸に手を当てて顔を少し斜め下に向けて言った。
「奥手なのかしら。それにしては情熱的だこと」
「これで私も本当の気持ちが言えます」
「えっ、いきなりそんな・・・・・・」
公女はもう信じられなかった。胸の鼓動が身体全体から聴こえるようであった。
「もう過去も現在も未来もありません。私の全てを貴女に捧げましょう!」
「それは本当ですか!?」
彼女はもう我慢が出来なかった。身体をこちらに向けた。
「は、はい」
カルロはここで妙なことに気付いた。王妃の背が普段より低いように見えたのである。そして声も低いような気がした。しかし気のせいだと思った。
「殿下、私も貴方のことを思い焦がれておりました」
「その言葉、お待ちしておりました!」
「それではこんなものもう必要ありませんね」
公女はそう言うと仮面を取り外した。
「!」
それを見たカルロは表情を凍らせた。
「殿下、お慕いもうしております!」
そう言ってカルロを抱き締めようとする。だが彼はそれから身をかわした。
「ど、どういうことなのだ、これは!?」
カルロは顔を蒼ざめさせていた。
「・・・・・・どうしたのですか!?」
皇女はそんなカルロの顔を見て不思議に思った。
「つい先程まであんなに嬉しそうでしたのに」
「それは・・・・・・」
見ればエボリ公女である。カルロはそのことに益々顔を青くさせた。
「こんなに強張ってしまって・・・・・・。折角お互いの気持ちを確かめることができたというのに」
「いや・・・・・・」
「違いますの!?」
公女はカルロの顔を見上げて問うた。
「殿下、私は知っているのです」
「何をですか!?」
カルロは顔を近付ける公女に対して問うた。
「貴方が今どういう立場におられるかを」
「立場といいますと」
カルロはその言葉にギョッとした。
(エリザベッタのことかも・・・・・・)
そう思うと恐怖した。今彼女の名を呼ばなくて本当に良かったと思った。
「お父上とポーザ侯爵が貴方について色々とお話しております。貴方は今大変危険な状況にあるのです」
(ロドリーゴが・・・・・・そんな・・・・・・)
カルロは親友と思っていた男の思いもよらぬ行動を知り愕然となった。
「ですが御安心下さい、殿下には私がいますわ」
「貴女が・・・・・・」
「はい、先程も言いましたがお慕いもうしております、一生殿下を愛しますわ」
「有り難う」
カルロは彼女に対しとりあえずは礼を言った。
「貴女の気持ちはよくわかった。しかし」
「しかし・・・・・・」
その言葉を聞いて公女は表情を変えた。いぶかしむものとなった。
「私は貴女の気持ちに応えることは出来ないのです」
「どういうことですか!?」
「それは聞かないで下さい」
「・・・・・・・・・」
公女はその言葉に顔色を暗くさせた。そしてあることに気がついた。
「殿下、まさか・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
カルロは公女の言葉に顔を蒼白にした。
「答えて下さらないのですね」
「それは・・・・・・」
答えられなかった。もし答えたなら全てが終わるからだ。
「いえ、もうわかりました」
だが答えなくとも結果は同じであった。
「そのようなことが許されると思っているのですか!?」
「言わないでくれ」
「いえ、言わずにはおれません!」
公女は声をあらいものにした。
「それが一体そういうことかわかっておられるのでしょうか!」
「わかっていてもどうにもならないことがあるんだ!」
彼は激昂してそう言った。
「開き直りましたね」
公女はカルロの顔を見上げて言った。
「この期に及んで」
「それは・・・・・・」
彼は自分が底なし沼にはまったことを悟った。そこへ誰かがやって来た。
「誰だ、そこで騒いでいるのは」
見ればロドリーゴである。
「殿下、どう為されたのですか!?」
彼はカルロに近付いて来た。
「エボリ公女も。一体どうしたというのです!?」
「殿下の秘密を知りましたの」
公女は悪魔めいた笑みを浮かべて彼に対して言った。
「殿下の!?」
彼は最初フランドルのことかと思った。
(いや、違うな)
だが彼はそうではないとすぐに察した。
(まさか・・・・・・)
ここでは彼は王が彼に対し語ったことを思い出した。
「では私はこれで」
公女はそう言うとその場を立ち去ろうとする。
「お待ち下さい」
彼はそんな彼女を呼び止めた。
「何処へ行かれるのです?」
「急用が出来まして」
彼女は素っ気無く答えた。その時チラリ、とカルロを見た。
(やはりな)
彼はその目の動きを見て全てを悟った。そし彼女に対して言った。
「貴女を行かせるわけにはいきません」
「何故ですか!?」
「貴女は今邪なことを考えておられるからです」
「あら、それはどうでしょう」
公女はロドリーゴに対し不敵な笑みで返した。
「むしろ貴方の方が邪なことを知っているのではなくて!?」
「何!?」
ロドリーゴはその挑発的な言葉に対し顔を顰めた。
「貴方が殿下のご親友であることはご存知ですわ。けれど私は殿下も貴方も地獄へ送って差し上げることが出来るということはご存知ないようですね」
「それは一体どういう意味だ!?」
「私も力を持っているということです」
彼女と彼女の兄の宮廷での力は良く知っている。だがこの口調からはそれ以上のものを感じるのだ。
「殿下と私をか」
ロドリーゴは彼女を睨み付けた。
「面白い、私はともかく殿下には指一本触れさせぬぞ」
彼はカルロを庇うようにして言った。
「あら、強気ですわね」
公女はそんな彼を嘲笑して言った。
「私が怒ればどういうことになるか一切ご存知ないというのに」
「戯れ言を。もし言ってみろ」
彼は語気を強めた。
「自分が何故ここにいたかわかってしまうぞ」
「どういう意味ですの!?」
「貴様が殿下を誘惑しようとしていたということは容易に想像がつくということだ」
「フフフ」
公女はその言葉を鼻であしらった。
「それは貴方もそうではなくて!?」
「何!?」
「貴方が殿下をフランドルへお送りしようとしていることも知っていますのよ」
「クッ・・・・・・」
ロドリーゴはその言葉に一瞬怯んだ。だがすぐに態勢を取り戻した。
「私は殿下を王として正しき道に御導きしているだけだ。貴様の様に卑しい道へ誘おうとしているわけではない」
「卑しい道ですって!?」
公女はその言葉に対し眉を吊り上げた。
「そうだ、貴様のその心と同じくな」
彼は気付かなかったが言葉が過ぎた。それが取り返しのつかないことになろうとは神ならぬ彼はこの時気付いていなかったのだ。
「今の言葉、よく覚えてなさい」
彼女は怒りに満ちた眼差しで彼を睨んだ。
「牝獅子の心臓を傷つけたこと、必ず後悔させてやるわ」
「フン、何が牝獅子だ」
ロドリーゴはその言葉を蹴り飛ばした。
「貴様は狐に過ぎん。狡賢い女狐だ」
「女狐ですって!?」
彼女はその言葉に顔を紅潮させた。闇夜の中でもそれがはっきりとわかった。
「その言葉、許せませんわ!」
「許す!?私をか!?」
ロドリーゴはそれに対し睨み返した。
「私は貴様などに許しを乞ういわれはないがな」
「フン、それはどうでしょうね」
だが公女も負けてはいない。
「いずれ貴方と殿下は私の前に跪くでしょうね」
「まだ殿下に危害を及ぼすつもりか!」
彼の怒りは頂点に達した。腰の剣を抜いた。
「あら、どうするつもりですの!?」
「そこになおれ、成敗してくれる!」
彼は公女に剣を突き付けて叫んだ。
「ロドリーゴ、止めろ!」
そこにカルロが割って入った。
「殿下、止めないで下さい、この女は殿下に危害を加えようとしているのですぞ!」
「だが相手は女性だぞ!」
「そのようなことは関係ありません、殿下を御守りする為です!」
「あら、麗しい忠誠心ですこと」
公女そんな彼をせせら笑ってそう言った。
「クッ、減らず口を!」
「ロドリーゴ、落ち着け!」
だがそんな彼をカルロが制止した。その言葉にロドリーゴも次第に落ち着きを取り戻してきた。
「はい・・・・・・」
彼は剣を収めた。そして公女を睨んだまま言った。
「その命、今は預けておこう。殿下に免じてな」
「有り難き幸せ」
彼女は悪びれもせずに昂然と顔を上げてそう言った。
「殿下」
そしてカルロに対して顔を向けた。
「お気の毒に。もうすぐ貴方は奈落の底に落ちますわよ」
「・・・・・・・・・」
カルロはそれに対して顔を青くさせたままであった。
「言ってみろ」
ロドリーゴはそんな彼を庇い公女を睨んだまま怒気を含んだ声で言った。
「そうすれば貴様は神の裁きを受けるだろう。そして一生後悔することになるだろう」
この言葉も奇しくも的中する、だが公女もロドリーゴもそれはこの時は知らなかった。
「それはどうかしら」
彼女はロドリーゴのその言葉を鼻で笑った。この時は。
「精々今はその忠誠心を誇りにしてらっしゃい」
そして激しい炎を口から吐き出した。
「今のうちだけね」
そしてその場を立ち去った。あとにはカルロとロドリーゴが残った。
「殿下」
ロドリーゴはカルロに歩み寄った。
「何か大事なものをお持ちでしたら私に預けて下さいませんか?」
「君にか!?」
「はい」
「しかし君は父上の腹心なのだろう」
「私を疑うのですか!?」
彼はそれを聞いて哀しい顔をした。
「いや」
カルロは首を横に振ってそれを否定した。
「君の心は今見せてもらった」
彼は先程のロドリーゴの行動を見て言った。
「君は私の本当の意味での友人だ。今の君の行動を見てそれがわかった」
「殿下・・・・・・」
ロドリーゴはその言葉に深い感銘を受けた。
「僕は何があろうと君を信じる。だから君のこれを授けよう」
そう言うと懐からあるものを出した。それは一枚の書類であった。
「有り難うございます」
ロドリーゴはそれを受け取ると感謝の言葉を述べた。
「殿下の御心、確かに受け取りました」
「頼んだよ、僕は全てを君に預けた」
「はい!」
二人は強く抱き締め合った。それは友情の熱い抱擁であった。
マドリード北西約二〇〇キロのところにバリャドリードという名の都市がある。カスティージャ=イ=レオン州の州都であるがこの街は歴史に度々現われる。
まずカスティーリャとアラゴン両王国の王同士の婚姻が結ばれた場所となった。この婚姻はスペインを作った歴史的な結婚であった。今フェリペ二世がこのスペインを治めているのもこれがあってのことであった。
またこの街には『ドン=キホーテ』の作者セルバンテスも住んでいた。後にはフランスブルボン王朝の太陽王ルイ十四世の母ドニャ=アナもこの地で生まれている。ジェノバの船乗りでありアメリカ大陸を発見したコロンブスはこの地で自らが見つけたその地をインドと信じながらこの世を去っている。
その街にある大聖堂である。かって二人の王が結婚したこの地の大聖堂で今とある宴が開かれようとしている。
それはこの時の欧州で度々、いやよく行なわれていた宴であった。
異端審問、そしてそれによる処刑である。異端は火刑に処されるのが決まりであった。
見れば聖堂の前の広場に柱が並べ立てられている。木のその柱の下には薪が既に設けられている。
「早くやれ!」
「そうだ、異端に死を!」
民衆の声が響く。娯楽のない時代である。彼等にとってこの処刑はまたとないショーであった。
こうした公開処刑は長い間人々にとってショーであった。ローマではコロセウムにおいてキリスト教徒達が餓えた獣に貪り喰われる様を見ることがショーであった。あちこちの国で処刑はショーであった。鋸引きも釜茹でもそうである。人の心の奥底にそうした血を好む一面があることは残念なことに否定出来ない。
今回の処刑は特別であった。何故なら処刑される者達はスペインの者達ではなかった。フランドルの者達なのである。
彼等は新教徒である。しかもフランドルの独立、スペインから見れば反乱の指導者達である。彼等の処刑はスペインにとって大きな意味があるのだ。
「陛下に逆らう奴等に死を!」
「思い上がったフランドルの奴等に神の裁きを!」
皆口々に叫ぶ。彼等にとって王と旧教こそが正義なのである。だからこそこの処刑を今か、今か、と心待ちにしているのだ。
「こら、そう慌てるな」
かえって兵士達がそれを宥める程である。
「落ち着いて待つがいい。そう焦らなくとも処刑は行なわれるからな」
彼等を指揮する将校の一人がそう言う。そして興奮する民衆を落ち着かせる。
民衆はその言葉に次第に落ち着きを取り戻した。やがて沈痛な葬送行進曲が鳴り響いてきた。
「来たな」
まず僧達が広場にやって来た。その後に楽隊が。そして兵士達に護送されて処刑されるフランドルの指導者達がやって来た。
「来たぞ、来たぞ!」
民衆はそれを見て再び興奮しだした。
「だから落ち着け、というのだ」
今度は僧侶達も彼等を落ち着けようと宥めだした。場は最早血への渇望に満ちていた。
僧達を指揮する司教が広場の中央にやって来た。フランドルの指導者達がその前に連れて来られる。
「神の掟を破った異端の者達よ」
司教は彼等に対して語りはじめた。
「今から汝等は神の裁きを受ける。そしてその罪の重さをとくと味わうがいい」
それはこうした異端審問でいつも語られる文句であった。
「しかし断罪の後で許しがある。汝等はその時に神のご加護にすがるがいい」
こうした文句は聞かされる側にとっては白々しいものでしかない。言う方にとっては単なるおためごかしである。そうした空虚な時間の後でフランドルの者達は火刑台の前に導かれた。
そこで晴れやかな曲が演奏された。その火刑式を見るスペインの要人達の入場である。
王妃をはじめとして王族や大貴族達が連なる。その中にはロドリーゴやエボリ公女もいた。
「・・・・・・・・・」
ロドリーゴは表情にこそ出さないがその胸中は不愉快なものであった。彼にとっては自分の身体が焼かれるようなものであった。
公女はそれを見て何か言いたげであったが言わなかった。そして皆それぞれの場所で立ち止まった。
「さあ、陛下が来られるぞ!」
民衆はそれを見て言った。大貴族のうち一人が聖堂の扉の前にやって来た。そしてその扉の前で立ち止まった。
「さあ、聖なる扉よ、今こそ開かれよ!」
彼はそう言うとその扉に手をかけた。
「いかめしき聖堂よ、我等の王を出し給え!」
そして扉を開けた。その中からフェリペ二世が姿を現わした。
正装をし頭上には王冠をいただいている。そして僧達に囲まれゆっくりと下に降りてくる。それに対して身を屈めて一礼していた。
彼は設けられた自身の席の前に来た。そしてそこで皆に身体を向けた。
「顔を上げよ」
皆それに従い顔を上げる。
「皆の者、わしは神よりこの国と王冠を授けられた時誓ったことがある」
彼はゆっくりと語りはじめた。
「それはこの国に永遠の繁栄をもたらすこと、そして神の教えを守ることだ」
そう言うと一度言葉を切った。
「今ここにいる者達はその二つを破った。それにより今から神の裁きを受ける」
その言葉は重苦しくその場の全てを圧するものであった。
「だがこの者達にも慈悲はもたらされる。それはこの世ではないにしろ神は必ずどのような者に対しても慈悲を与えられるものなのだ」
それはフランドルの者を見て言っているのではなかった。彼は僧侶達、とりわけ司教をチラリ、と見た。
「それは忘れてはならない。そしてわしはその神とこの国に永遠の忠誠を誓おう!」
「陛下に栄光あれ!」
皆それを聞き口々に王を称えた。殆どの者にとってフェリペ二世は偉大な国王であったのだ。
「でははじめるがよい。苦しむことのないようにな」
彼は席に着くと司教に対して言った。彼はそれに対して恭しく頭を垂れた。
「王太子の姿が見えぬな」
王は隣りの席に座る王妃に対して言った。
「そういえば」
エリザベッタはそれに気付きハッとした。
「何処に行ったのだ」
彼は妃の表情を窺いながら尋ねた。やはり怪しんでいるようだ。
「まあ良い、そのうち来るだろう」
王はそう言うと顔を正面に向き直した。そこでは火刑の準備が行なわれている。
「あ奴は昔からそうであった。どうも気ままなところがある」
彼は少し憮然とした表情でそう言った。
「母親を早くに亡くしたのが悪かったのかのう。やはり父親だけでは子は育たぬか」
「それは・・・・・・」
フェリペ二世も同じであった。彼も幼い頃に母親と死に別れている。以後彼は男の世界で育ってきている。
エリザベッタはそれについて言おうとした。だがその時であった。
「殿下が来られました!」
この場を守る衛兵達を指揮する将校の声がした。
「やっとか」
王はそれを聞いて言った。
「全く何をしておったのだ」
その直後彼は息子が何をしていたのか悟った。
「何・・・・・・」
彼はそれを見て思わず眉を顰めさせた。カルロは一人ではなかったのである。
その後ろにはある者達が続いていた。彼等はスペインの服を着てはいなかった。何とフランドルの服を着ていた。
(殿下、まさか・・・・・・)
ロドリーゴはそれを見て思わず顔を白くさせた。カルロは何とフランドルの者達をここに引き連れて来たのだ。
カルロは父王の前に来た。そして跪く。その後ろにいる者達もそれに倣った。
「太子よ」
王は重苦しい声で彼に対し尋ねた。
「わしの前でそなたと共に跪くその者達は一体何者だ!?」
「陛下の忠実なる領民達です」
カルロは顔を上げて答えた。
「わしのか」
王はそれを聞いて眉をピクリ、と動かした。
「立つがいい」
王はカルロとその者達に対して言った。皆それに従い立ち上がった。
「見たところスペインの者ではないな」
「はい」
「フランドルの服を着ているが」
「そうです、この者達はフランドルから来ました」
カルロは王の顔を見上げて答えた。皆その言葉に大いに驚いた。
「ほう、フランドルからか」
王はそれに対し感情を表に出すことなく応えた。
「一体フランドルから何用で来たのだ?」
「陛下に申し上げたいことがあるそうです」
カルロは彼等を代表して言った。
「何の用でだ!?」
彼は薄々は察していたが顔にはそれを出さずに問うた。
「王太子、いや我が子よ」
彼はあえてそう呼んだ。彼が話しやすいようにである。
「言ってみるがよい」
「わかりました、父上」
カルロは頭を垂れて答えた。そして話はじめた。
「今フランドルは血と涙に覆われております。どうかここにいる者達に対し慈悲を賜りますよう」
「今火にくべられようとしている者達に対してもか」
「それは・・・・・・」
カルロは後ろを見た。見れば火刑台にくくりつけられている。
(助けなければ)
彼はそれを見て意を決した。しかしそれは誤りであった。
彼は父の心を読み取れなかった。父である王は旧教の擁護者でもあるのだ。フランドルの者は救うことは出来ても火に入れられようとしている新教の者を救うことは出来ないのだ。それがわからないのは彼が若かったからだけではない。彼は自身の家のことも忘れていたのだ。
「お願いします」
彼は父に対して言った。
「陛下、ご慈悲を賜りますよう」
フランドルの者達も彼に倣って言った。
「・・・・・・・・・」
王は暫し黙っていた。カルロはその顔をジッと見ていた。
「ならん」
王は顔も首も動かすことなく言った。
「あの者達を許すことはならん」
「何故でしょうか!?」
カルロはそれを聞き血相を変えて問うた。
「わしに対しての不忠なら許そう。あくまで問い聞かすだけだ。しかし」
王は言葉を続けた。
「神に対する不忠だけはならんのだ」
「何故ですか!」
「カルロよ」
王は自身の子の名を呼んだ。
「そなたもわしの後を次ぎこのスペインの王となるならば、そしてハプスブルグの者のあらばわかるがいい。何故神に対する不忠が決して許されぬかを」
彼はそう言うと側に控える衛兵達に顔を向けた。
「そこにいるフランドルの者達を退けるがいい。話は後で聞いてつかわす故」
「ハッ」
兵士達は頭を垂れるとフランドルの者達を取り囲んだ。
「ならんっ!」
カルロは彼等の前に立ちはだかった。
「彼等を退けることは私が許さんっ!」
「殿下、ですがこれは・・・・・・」
兵士達は何時にない彼の頑なな態度に戸惑った。だが王はそんな彼に対して言った。
「カルロよ、席に着くがいい。あまり他の者を困らせるな」
「ですが父上っ!」
だがカルロはそれを聞き入れようとはしない。あくまで抵抗し衛兵達の前に立ちはだかる。
「陛下」
そこにエリザベッタとロドリーゴが進み出た。
「太子の仰ることももっともかと。ここはお慈悲を」
「・・・・・・・・・」
彼は妃を見た。その目は何かを疑っていた。
(やはりな)
彼はカルロを見るエリザベッタの目を見て何かを悟った。
「陛下、私からもお願いです」
そこにいる貴族達のうち何人かもそれに続いた。
「そうだ、殿下や王妃様の仰る通りなんじゃないか!?」
民衆の中にもそう言いはじめる者が現われてきた。
「父上、お願いです!」
カルロは形勢が有利になったと思いさらに言った。
「フランドルの者達に、今火にかけられようとしている者達に対してお慈悲を!」
「・・・・・・・・・」
だが王はそれに対し答えようとしない。その山の様に動かない頑なな態度はまるで彼がカルロに何かを見せようとしているかのようであった。
「陛下」
そこにある者達が進み出て来た。司教を先頭にした僧侶達だ。
「それはなりません」
彼等は王に対して言った。
「あの者達は神に対して不敬を働いたのです。それは万死に値します」
王はそれに対し顔を向けずに聞いている。顔はカルロに向けられたままである。
「ましてや陛下に対してこのようなことを。すぐに裁きを下されるべきかと」
「下がれ」
王は彼等に対して言った。
「カルロよ、もう一度言おう」
彼は我が子に対して言った。
「ならん。その者達をすぐに下がらせるがいい」
「父上っ!」
「これは王としての命令だ。聞き入れよ」
彼はあえて低く、響き渡る声でそう言った。
「いえ、それは出来ません」
カルロはそれに対して首を横に振って言った。
「私は今こそ言いましょう。私にフランドルをお与え下さい、そしてその地に平穏をもたらしたいのです!」
「そなたは自分の言っていることがわかっておるのか!?」
彼はその言葉を聞き眉を少し歪めた。
「はい、私はその地で真の王となります」
「・・・・・・愚か者が」
王はそれを聞き腹の底から振り絞るように言った。
「そのようなことが出来ると思っているのか。そなたはハプスブルグを、このスペインのことを何も知らぬのか!」
彼は席を立った。そして激昂した声で息子を叱りつけるようにして言った。
「知っております!」
「知っていてそのようなことが言えるのか!」
「当然です!」
二人のその様子を見てロドリーゴとエリザベッタは顔を蒼くさせた。
(まずい)
二人は咄嗟にそう思った。カルロは次第に我を忘れだしていた。
「父上!」
彼は叫んだ。
「どうしてもフランドルの者達にお慈悲をお与えにならないのですか!」
「神に逆らう者には出来ぬと言っておろう!」
カルロはこの言葉の真意を理解できていなかった。そしてあまりにも興奮し過ぎていた。
「哀れなフランドルの者達よ!」
彼は後ろに、そして火刑台にいるフランドルの者達の方を振り向いた。
「私はこの身をかけて君達を救おう!」
そう言うと腰の剣を抜いた。帯剣はこの場では王以外は彼だけが許されていたのだ。
「な!」
それを見て皆驚愕した。彼は王と正対しているのである。
そして今言った言葉。王を殺そうとしていると思われても仕方がなかった。
「馬鹿者が!」
王は息子の思いもよらぬ行動に対しても我を忘れなかった。そして彼を一喝した。
「王の前で剣を抜くということが何を意味するのかわかっておるのか!」
「私は誓いました、この命にかえてもフランドルの者達を救うと!」
彼はまだ我を忘れていた。
「最早容赦出来ぬ、衛兵よ、この愚か者を取り押さえよ!」
王の命令が広場全体に響き渡る。だが兵士達は動けなかった。
「どうした、何をしておる!」
王の雷の様な言葉が再び響く。しかし誰も動けなかった。
相手は王太子、次の国王である。そのような人物に危害を及ぼすことは出来なかったのだ。
「そうか、誰も動かぬか」
王はそれを見て言った。
「ならばよい」
そう言うと腰から剣をゆっくりと引き抜いた。
「わしがこの愚か者を取り押さえよう」
惨劇が起こりかねなかった。王もカルロも引かない。互いに睨み合っている。皆その出来事に驚き動くことが出来なかった。そのまま父と子の惨劇が起ころうとしていた。その時だった。
「お待ち下さい!」
それはロドリーゴだった。彼は王とカルロの間に入ってきた。
「侯爵!」
一同は彼の行動にさらに驚いた。
「殿下」
彼はカルロに身体を向けた。そして言った。
「気をお鎮め下さい」
「ああ・・・・・・」
カルロはそこでようやく我に返った。彼の言葉でハッと気付いたのだ。
「そして剣をこちらへ」
「うん・・・・・・」
そして言われるまま剣を差し出した。ロドリーゴはそれを受け取ると王に差し出した。
「どうぞ」
一礼してそれを差し出す。王は無言で受け取った。
「何と鮮やかな・・・・・・」
「流石だ」
彼の評判は元々高かった。だがそれを見て皆さらに感服した。
「侯爵、よくやった」
剣を受け取った王は彼に対して言った。
「今の功績によりそなたを公爵に任じよう」
「有り難き幸せ」
ロドリーゴは頭を垂れた。カルロは衛兵達に取り囲まれた。
「連れて行け。頭を冷やさせるがいい」
「ハッ」
衛兵達は王の言葉に従いカルロを連れて行く。カルロは周囲を衛兵達に取り囲まれそのまま連行される。
「・・・・・・・・・」
彼は完全に魂が抜けていた。呆然と歩いている。
(殿下・・・・・・)
ロドリーゴは暫し彼を見ていたが視線を外した。そして火刑台を見た。
フランドルの指導者達はそこに縛られた。そして今薪に火が入れられようとしている。
(私の全てを賭ける時が来たな)
彼は何かを決意した。そして席に戻った。
火が点けられた。フランドルの者達の苦悶の声が聞こえてきた。それは炎と共に広場を覆い何時までも残っていた。
何か怪しげな雰囲気が…。
美姫 「エボリ公女はどうするつもりなのかしらね」
王妃と息子の関係を怪しむ王の行動も気になるしな。
美姫 「一体、どうなるのかしら」
いや〜、次回も楽しみだな。
美姫 「本当よね。次回も楽しみにしてますね」
ではでは。