第二幕 ユステ僧院
ハプスブルグ家には名のある君主が多い。その祖である神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ一世をはじめとして中世最後の騎士と謳われたマクシミリアン一世、後のオーストリア中興の祖マリア=テレジア、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ=ヨーゼフ帝等である。その中でもフェリペ二世の父であるカール五世の名は特に有名である。
神聖ローマ帝国皇帝として君臨していた。フランスやトルコと戦いルター等新教徒達と渡り合った。彼はその双肩にドイツとスペインを抱え、それを見事に支えていたのだ。
だがその彼も今はこの世にはいない。スペインマドリードにあるこのユステの僧院に静かに眠っている。
僧院の中には礼拝堂がある。カール五世の好みであろうか、豪奢ではない。むしろひっそりとしている。政治に疲れた彼はその位を息子であるフェリペ二世と弟であるフェルディナント一世に譲った後この僧院に隠棲し余生を送ったのである。
金箔で塗られた鉄格子の奥に墓がある。カール五世の墓だ。彼は今この地にいるのである。
「偉大なるカルロス五世よ」
僧達が亡き王に祈りを捧げている。カルロスとはカールのスペイン語読みである。
「今は最早この世にはない。今はその素晴らしき志と業績を偲ぶだけである」
「そう、陛下はまことに偉大であられた」
僧の一人が言った。
「だがそれも志半ばであった。今陛下は神の許におられる」
「今は陛下のご冥福をお祈りするばかり。天界にあっても我等が王とこのスペインを御守り下さい」
祈りは続く。そこに一人の若者がやって来た。
「お爺様への祈りか」
それはカルロであった。
「ここはお爺様がその人生の最後を送られたところだ。疲れきったその御心の平穏を望まれた場所」
カルロは礼拝堂の祖父の墓を見ながら呟いた。
「今もこの場所におられる。そして」
言葉を続けようとする。その時だった。
「人の子の安らぎは神の御許にしかない。人の苦しみはこの世にある限り続くのだ」
そこに一人の年老いた僧が通り掛かった。
その僧は顔をすっぽりとフードで包んでいる。顔は見えない。だがその声はしわがれ低いものであった。
「今の声は・・・・・・!?」
カルロはその声に聞き覚えがあった。
「そんな筈はない。お爺様はもうこの世にはおられぬのだから。いや・・・・・・」
カルロはここで一つの噂を思い出した。
「まだこの世におられるというが。僧衣の下に王冠と黄金の甲冑を着込まれて」
青い顔をして先程の僧侶の方を振り向く。だがそこにはもういなかった。
「消えたか。行ってしまったようだ」
だがその時遠くから声がした。
「安らぎは神の御許にしか存在しない」
あの僧の声だった。そして声は消えていった。
「まるで私に語りかけているようだ。何と無気味な声だ」
彼は声を耳に留まらせたまま呟いた。
そこに見習いの若い僧侶に導かれて一人の青年がやって来た。
「殿下、こちらにおられましたか」
「ロドリーゴ・・・・・・」
カルロはその青年の方を振り向いた。
その青年はカルロとは対照的に大柄で筋肉質であった。顔はやや細長いながらも彫りが深く整っている。長く黒い髪を帽子の下にまとめている。その瞳は黒く力強い光を放っている。
青い絹の豪奢な服に身を包んでいる。彼の名はポーザ侯爵ロドリーゴ、フェリペ二世の腹心にしてカルロの幼い頃からの友人でもある。
「どうしてここい!?」
「殿下にお話したことがありまして」
「そうか」
彼等は若い僧に金を手渡しその場を去らせた。その場には二人だけとなった。
「そして話というのは?」
カルロはロドリーゴに対して問うた。
「殿下がお悩みとお聞きしましたので」
ロドリーゴは謹んで答えた。カルロはその言葉に表情を暗くさせた。
「・・・・・・知っていたのか」
彼は顔を下に俯けた。
「何が理由かまでは存じませんが殿下のご様子から」
「否定はしない。だが訳は聞かないでくれ」
「はい」
ロドリーゴは答えた。
「話はそれだけではないだろう?君も何か言いたそうだ」
カルロはロドリーゴの顔を窺って言った。
「はい、殿下に是非ともお話したことがありまして」
ロドリーゴは表情を深刻なものにした。
「何だい?」
「私は先日までフランドルに行っておりました」
「それは知っているよ。活躍したそうだね」96
彼は将軍としても有名であった。
「はい、ですが・・・・・・」
ロドリーゴは自身の武勲を称えられても表情は暗かった。
「一体どうしたんだい!?そんなに表情を暗くさせて」
カルロは彼のあまりにも冴えない表情を見て自分も表情を暗くさせた。
「・・・・・・殿下、今フランドルで何が起こっているかご存知でしょうか」
「我がスペインに対する反逆だろう」
彼は率直に言った。そう聞かされていた。
「・・・・・・ちがいます」
ロドリーゴは暗い声で言った。
「では一体何なんだい!?私には君の話がよくわからないのだが」
「今フランドルは地獄と化しています。我々の弾圧によって」
「何っ、それは本当かい!?」
フランドル、今はオランダと呼ばれる地方は婚姻政策によりハプスブルグ家の領地であった。かってこの地はフランスと所有を巡り激しく対立したこともある。商業の栄えた地であり今はスペイン領でありスペインの重要な税の収入源であった。
商業が盛んな為商工業者の力が強い。ここで宗教の問題が絡んでくる。
長い間欧州の教義はローマ=カトリックにより統一されていた。他の考えを持つ者達は異端として惨たらしい刑罰により抹殺されてきた。アルビジョワ十字軍によるフランス南部に勢力を持っていたカタリ派への徹底した殺戮は有名である。これは当時の法皇インノケンティウス三世が政治的判断によりカタリ派の財産を討伐軍のものにすることを許したことも背景にあった。シモン=ド=モンフォールという男は人々の目をくり抜き顔の皮を剥ぐという鬼畜の如き行いを続けていた。
教会に対する批判も許されなかった。教会の腐敗を批判したボヘミア大学教授フスは異端と判決され火刑に処された。フスは自身が焼かれる前にその目の前で自らの書を焚書された。これは極めて屈辱的なことであっただろう。
異なる考えも批判も許さない。そして富も権力も独占している。これで腐敗が進まない筈がなかった。フッガー家やメディチ家のような欧州の勢力を持つ家が教皇を輩出し更に力を誇示した。そして腐敗はいくところまでいっていた。
遂に自らの寺院サン=ピエトロ寺院を建設する為の費用を調達する為に『免罪符』なるものを発布した。これを買えば罪が許されるというものである。教会の自浄能力など最早なかった。しかも彼等は領民から好きなだけ金を搾り取っていた。神聖ローマ帝国などは『教会の牝牛』と呼ばれていた。絞れば絞る程金が出るというわけである。
これに異を唱える者が遂に現われた。ドイツの宗教家マルティン=ルターである。
世話焼きで人間臭い男であった。ビールの害毒について何時間も講義しておきながらそのビールが大好きであった。修道女達の結婚を世話してやり残った最後の一人と公に結婚し多くの子供達に囲まれた。彼は実に子煩悩な父親でもあったのだ。
そして強い正義感の持ち主であった。彼は教会の腐敗を公然と批判した。修道女との結婚もその意があった。聖職者の公式の結婚は認められていなかったのだ。しかし隠し子を持つ者は非常に多かった。教皇ですらそうであった。彼はそれに対した批判をしただけであった。しかしそれを許すような教会ではない。
彼は破門に処された。教会の切り札である。一国の王ですらこれには対抗できない。
しかし彼はそれを完全に無視した。そして批判を続けた。
業を煮やした教会は援軍を頼んだ。ルターのいる神聖ローマ帝国の皇帝カール五世に対してである。彼は神聖ローマ帝国の皇帝としてそれを了承した。一説にはルターの主張に対しても理解していたようであるが立場がそれを許さなかった。何故なら神聖ローマ帝国はフランク王国に次で教皇に冠を授けられた国である。教会の保護者なのであるから。
ウォルムスにて会議が開かれることとなった。当然ながらルターも呼ばれた。カール五世は彼に今までの発言を撤回するように言った。しかしルターはそれを拒絶した。
これに対してカール五世も断固たる処置をとらざるをえなかった。彼を法律の保護外に置いたのである。これは生命を保証しないということであった。ルターはそれにも臆するところがなかった。しかし絶体絶命であることは事実である。そんな彼に手を差し伸べる者が現われた。
選帝侯の一人ザクセン公爵である。彼は以前よりハプスブルグ家の権限が強まるのを好ましく思っていなかった。その為ルターを匿ったのである。
ルターはそこで聖書をドイツ語に翻訳した。それまではラテン語で書かれているものだけであったが彼はより多くの人が聖書を読む為に翻訳したのである。そしてそれをグーテンベルクの金属製の活字印刷が広めていった。これが大きなうねりとなる。
やがてルターの教えを信じる者達が立ち上がるようになった。そして戦争を起こした。ドイツ農民戦争である。
ルターは最初はそれを指示していた。だが農民の行動がこれまでの摂理を乱すものだと批判するようになった。これはこの戦争の指導者トマス=ミュンツァーの主張をルターが過激過ぎると判断したからだという。彼は農民を抑えるように主張した。それがルターの限界だったかも知れない。しかし彼の果たした役割は大きくその考えに賛同する者が多く現われたのである。
カルヴァンもそうであった。彼はスイスで活動を続けたがその主張はルターよりも過激でかつ厳格であった。
予定説、人の運命は神によって既に定められているというものである。これはさしものルターも途中でその主張を撤回せざるをえない程のものであった。何故ならこれでは救いなど語れなくなるからだ。
しかしカルヴァンはこう言った。人間は与えられた仕事を真面目に働けばよいのだと。それこそが神の意志であると。それが出来ている人間は救われているのであると。
これはこうも解釈できた。蓄財はいいことだと。カルヴァンはそれを肯定した。働いて金を稼ぐことの何が悪いのか、と。
これは画期的な主張であった。それまでキリスト教においては蓄財は悪と考えられてきた。スコラ哲学を大成させたトマス=アクィナスはこれを罪悪とは考えなかったが大方はそうであった。そうした考え方を一変させたのであった。
この考えは都市の商工業者に支持された。そして彼等はカルヴァン派に改宗していった。
フランドルは商工業の発達した地域である。ならばカルヴァン派が増えるのも当然であった。こうして彼等はスペインのカトリックとは考えを異にするようになったのである。
これに対しフェリペ二世は強硬策に出た。生真面目で潔癖症なところがある彼はそれを許さなかったのだ。ハプスブルグ家の者としてもである。彼等はカトリックの擁護者、神聖ローマ帝国皇帝家なのだから。
フランドルの弾圧は熾烈を極めた。それに対しフランドルの者達も徹底的に戦った。こうしてこの地は血に染まっていったのである。
「そうだったね、彼等は新教徒だったんだ」
カルロはロドリーゴの話を聞いて頷いた。
「そうなのです、その為にあの地では何時果てるともなく戦いが続けられているのです」
ロドリーゴは悲痛な面持ちで言った。
「しかし君もカトリックだろう?何故そんなに悲しむんだい」
カルロは首を傾げて問うた。
「我々にとって彼等は敵だ。敵を倒さなくてどうするというのだい?」
「殿下、お言葉ですが」
ロドリーゴはそんな彼の主張に対して首を横に振った。
「彼等は考えの差こそあれど我々と同じなのです。彼等もまたこの双頭の鷲の下にいる者達なのです」
双頭の鷲、それはハプスブルグ家の紋章である。本来は神聖ローマ帝国の紋章であったが何時しかハプスブルグ家の紋章としても知られるようになった。
「それならば慈愛を持って対応するべきではないのでしょうか。それこそが彼等の、そして我がスペインの為であると存じます」
「つまり彼等の信仰を認める、ということだね」
「お言葉ながら」
ロドリーゴはそう言って頭を垂れた。
「だが私にはそれをどうすることも出来ない」
カルロは頭を振って言った。
「それが出来るのは父上だけだ。しかし・・・・・・」
父が自分の言葉を聞き入れてくれるとは到底思えなかった。普通の父子とはあまりにも関係が違い過ぎた。父は王なのである。そして自分はその後継者だ。彼は子である前に彼の後継者でありまた家臣であったのだ。父は彼に対して常にそう言ってきた。
「いえ、殿下だからこそ出来るのです」
ロドリーゴは表情を暗くさせるカルロに対して言った。
「私だから!?」
カルロはその言葉に顔を上げた。60
「そうです、我が国の後継者である殿下だからこそお出来になるのです。フランドルの民衆を救うことが」
「一体どうやって・・・・・・」
カルロはその言葉に対し狼狽した。
「殿下がフランドルへ行かれて直接政治を執られるのです。そうすればフランドルに無益な血が流れることもなくなるでしょう」
「しかし私にそんなことが・・・・・・」
彼には自信がなかった。虚弱でいつも父の影に隠れていた自分にそんなことが出来るとはとても考えられなかった。
「できます、殿下には素晴らしいお力が備わっております」
だがロドリーゴはそんな彼に対してあえて言った。
「王としての在り方はそれぞれです。殿下は殿下のその優しいお心を使われればいいのです」
「それでいいのだろうか」
「はい。そうすれば神はきっと殿下を御導き下さるでしょう」
ロドリーゴはカルロを励ますようにして言った。
「それなら」
カルロは顔を上げた。
「行こう、フランドルへ。そして血の海の中にあえぐあの地の者達を救おう」
「はい、皆殿下をお待ちしております。彼等をお救い下さい」
ロドリーゴは強い声で言った。
「ロドリーゴ」
カルロはそんな彼の名を呼んだ。
「それには補佐が必要だ」
「はい」
「私には君が必要なんだ。来てくれるかい」
「当然です、私の命は今より殿下に捧げます」
彼はそう言って片膝を折り彼の前に跪いた。カルロはそんな彼を立たせて言った。
「有り難う、では私達はこれから死ぬまで一緒だ」
「はい、フランドルを救う為に」
彼等は強く抱き締めあった。そして右腕を絡み合わせ誓った。
そのユステの寺院の前である。質素な僧院であるがその前には緑の芝生が生い茂っている。オレンジや乳香樹の木々が生い茂っており向こう側には青い山が見える。特に整備されているわけではないが美しい場所である。
そこに宮廷の女官達が集まっている。この場所は彼女達にも人気があるのだ。
「やはりここはいいですね」
彼女達はオレンジの木々を眺めながら言った。
「ええ。宮仕えの気苦労を癒すには一番ですわね」
彼女達は小姓達の奏でるマンドリンを聞きながらその場に座りゆったりと佇んでいる。そこに一人の濃い赤の豪奢な服に身を包んだ若い女性がやって来た。
「皆様、こちらにいらしたのね」
彼女は女官達を見つけると優雅に笑った。
黒い髪と瞳を持つ美女である。美しいことは美しいが何処か苛烈そうである。エリザベッタの美しさが鹿のものだとすると彼女のそれは豹のものであった。肌は白いく透き通っているがその白さにも何故か棘がある。仕草の一つ一つが外に向けられておりピリピリとしている。顔付きもきつくそれが彼女を近寄りがたいものにしている。
「エボリ公女」
女官達は彼女の姿を認めてその名を呼んだ。彼女は宮廷ではその名を知らぬ者はない女性であった。
軍人として名を馳せたエボリ公爵の妹である。幼い頃から美しく勝気な少女として知られ今では兄と共に王の側近として宮廷にいる。王妃とも親しくその良き相談相手である。
「皆様、ご機嫌よう」
公女は彼女達に対して微笑んで挨拶を返した。
「今日は素晴らしい天気ですわね」
微笑んだその顔は美しい。だがやはり何処か激しさを秘めている。
「本当に。毎日こんな日ばかりだといいのに」
女官の一人が笑顔でそう言った。
「けれどそんな日ばかりだと飽きてしまいますね。雨も降るから余計に太陽がいとおしくなるものですよ」
公女はそんな彼女に対して言った。
「ところで殿下はどちらですか?」
彼女はカルロのことについて尋ねた。
「殿下でしたら僧院の中ですわよ」
女官の一人が答えた。
「そうですか」
公女はそれを聞いて頷いた。
「それでは殿下をお待ち致しましょう。こちらから出向くのは失礼ですし」
そしてマンドリンを持つ小姓の一人に顔を向けた。
「マンドリンを」
「はい」
小姓はそのマンドリンを差し出した。公女はそれを受け取った。
「私の歌でも披露させて頂きましょう」
「本当ですか!?」
彼女は宮廷でも有名な歌の名手である。皆その言葉を聞き目を輝かせた。
「はい。今日は喉の調子がよろしいので」
そして彼女はマンドリンを両手に抱えた。
「どの曲がよろしいですか?」
皆に尋ねた。
「ヴェールの歌を」
「わかりました」
彼女はそのリクエストに答えると静かにマンドリンを弾きはじめた。そして口を開いた。
「ではいきますよ」
「はい」
彼女は歌いはじめた。
「グラナダの王様の宮殿のお話です。宮殿の睡蓮のお池のほとりに一人の女の人がおりました」
「その方はどなたですか?」
女官達はあえて聞いた。
「その方は厚いヴェールを被っておりました。その方は王様の前にまるで蜃気楼のように姿を現わされたのです。星降る夜の下に」
「まるで夢か幻の様なお話ですね」
「はい。その方を御覧になった王様は一目で心を奪われました。そしてその方に語りかけたのです。『美しい人、私と共に暮らさないか』と」
「けれど王様はお一人なのですか!?」
「いいえ。王様にはお妃様がおられました。けれども恋の炎だけはどうしようもなかったのです。これも全て厚いヴェールの魔力なのでしょうか」
「不思議なヴェールですね。本当に魔力が備わっていたのでしょうか?」
「それはこれからわかること。ヴェールは全てを覆い隠すものなのですから」
彼女は歌を続けた。マンドリンの音がさらに響く。
「王様はまた仰いました。『この庭はどうも暗い。おかげで貴女のその髪も顔も見えはしない。だが私にはわかる。貴女はこの宮殿に舞い降りた天女だ。さあそのヴェールを取ってくれ』」
「大胆な。それでその方はどうされたのですか?」
「何も答えられませんでした。ただ王様のお話をお聞きになっていただけです」
「まあ、恥ずかしかったのかしら」
「ですが王様があまりに強く望まれるので遂にそのヴェールをお取りになりました。さあ、ヴェールの下にはどなたがいらしたでしょうか!?」
公女はそこで女官達に顔を向けて微笑んで問うた。
「どなたですか!?」
女官達は尋ねた。
「お聞きになりたいですか?」
公女は再び問うた。
「はい、是非とも!」
女官達は言った。
「それでは」
公女は妖艶に微笑んで歌を再び歌いだした。
「そこにはどなたがいらしたでしょう。何とそこには」
「そこには!?」
「お妃様がいらしたのです、お妃様は驚く王様にお顔を向けられて仰いました。『王様の申し出、謹んでお受け致しますわ』と」
「まあ、それはそれは」
女官達は囃し立てるように言った。
「これは全て王様の浮気心を懲らしめる為にお妃様の計画でした。王様は以後お妃様をこれまでより大切になされたというお話です」
「それもこれもヴェールのおかげですね」
「そうです、ヴェールには不思議な魔力が備わっているのですよ」
公女は歌った。
「皆さん、殿方の心を我がものにしたければ」
「ヴェールの魔力を借りるのが一番ですね」
「そういうことです!」
彼女達は歌う。そこにエリザベッタがやって来た。彼女も僧院に参りに来たのだ。
「王妃様!」
皆彼女の姿を見て頭を垂れた。
公女もである。だがその物腰は何処か彼女に対して優位にあるようなものであった。彼女は口元にうっすらと笑みを浮かべていた。
「顔を上げて下さい」
エリザベッタは一同に対して言った。皆それに従い顔を上げる。
「お楽しみのようですね」
彼女は公女と女官達に微笑んで言った。
「はい、歌を歌っておりました」
公女が一同を代表して答えた。
「まあ、どのような歌ですか?」
「スペインの歌です。ヴェールの魔力を歌ったものですよ」
「ああ、あの歌ですね」
ヴェールの歌のことは彼女もよく知っていた。
「恋の魔力ですね」
「そうです」
公女は謹んで申し上げた。
「素晴らしいですね。殿方の御心を再び虜にするなんて」
「殿下には必要のないものかと存じますが。陛下がおられますので」
「はい」
彼女はおもてむきは優雅に微笑んで答えた。だがその内心は別であった。
(私が欲しいのはそれではないわ。私が欲しいのは・・・・・・)
そこでカルロの顔が思い浮かぶ。だがそれは心の中で打ち消した。
(いけない、もう忘れなくては)
すっと目を閉じた。そしてすぐに再び目を開けた。
「どうなされました?」
公女はそれに何かを感じた。そしてエリザベッタに対して問うた。
「いえ、何も」
彼女は平静を装い答えた。だが公女はそこに何かを感じていた。ロドリーゴがその場にやって来た。
「陛下、これはご機嫌うるわしゅう」
彼はエリザベッタの前に来ると片膝を折った。エリザベッタは彼の前に右手を差し出した。
「有り難き幸せ」
そして手の甲に接吻をすることを許した。それから彼を立たせる。
「陛下にお渡ししたいものがあります」
彼は立ち上がると彼女に対して言った。
「それは何でしょうか?」
「これです」
懐から何か取り出した。それは一通の手紙であった。そこには王冠と百合の紋章がある。彼女の家であるヴァロア家の紋章だ。
「是非お読み下さい」
「はい、わざわざ有り難うございます」
エリザベッタは礼を言うとその手紙の封を切った。そして手紙を読みはじめた。
「そういえばフランスでは今何が行なわれているのですか?」
公女がロドリーゴに対して問うた。
「今は宮廷で開かれる槍試合のことで話題がもちきりらしいですよ」
ロドリーゴは親切な物腰で答えた。
「まあ、あの国らしいですね」
公女はそれを聞いて微笑んで答えた。当時のフランスは文化的にはまだ進んでいるとは言えなかった。実際はブルボン朝の時代になっても王が決闘で人を殺すこともあったし衛生観念なども無かった。ベルサイユ宮殿の庭やカーテンの隅は汚物で満ちていた。この時代は言うまでもない。食事は手掴みであったし服装も洗練されているとは言い難かった。むしろイタリアの諸都市の方が余程洗練されていた。
「何でも陛下も出場されるそうですね。今はそれが話題の的となっておりますよ」
「陛下ご自身がですか!?」
「はい」
なおこの王はエリザベッタの父である。フランス王アンリ二世。彼はこの試合で命を落とすことになる。
「これは素晴らしいことですわね。フランス王といえば大変な偉丈夫だとか」
「はい。どの者も陛下の見事な槍裁きを見たいと言っているようですよ」
この試合で彼は命を落とす。そして息子が後を継ぎ彼の妻であったカトリーヌ=ド=メディチが後見人となる。彼女はイタリアの富豪メディチ家の出身であるが当時においても歴史においても評判は芳しくはない。当時メディチが様々な権謀術数を駆使していたことは広く知られていたし彼女自身も黒ミサを行なっただの政敵を暗殺しようとしただの女官達を使って情報を集めているだの良くない噂で満ちていた。そして後にフランスの新教徒達を虐殺している。歴史に名高い『サン=バルテルミーの虐殺』である。これは宗教よりも政争であったがこれにより多くのフランスの新教徒、ユグノーが殺された。パリは彼等の血と屍骸に覆われた。そのことから彼女の悪名は今にまで伝わっている。
そうしたフランスであったがここに一人の美女がいた。ディアヌ=ド=ポワティエである。彼女はその老け込まない美貌で何と二十歳年下の国王アンリ二世を虜にしてしまっていた。彼は七歳の時に彼女を見て一目で心を奪われそして死ぬまで彼女のことのみを考えていたのだ。それ程までに美しい女性であるから当時でもフランス以外の国においても評判の美女であった。彼女はフランスの宮廷の女性の代名詞とも言える存在であった。
「ところでお話は変わりますけれど」
「はい」
ロドリーゴはエボリの話に合わせた。
「パリのルーブルでの夜会はそれはそれは素晴らしいものだとか」
「はい、あの方もおられますし」
彼はふとそのディアヌ=ド=ポワティエの話題を出した。
「あの方は肖像画でしか知らないのですが」
公女はエリザベッタをチラリと見て言った。
「まるで女神のようだとか」
実際に彼女は月の女神とも称えられていた。
「はい、私も一度お会いしたことがありますが」
ロドリーゴは答えた。
「本当にお美しい方ですよ」
「それはそれは私もそのようになれたらいいのですが」
「御心配なく。貴女はあの方よりも美しいですよ」
「まあ、そんなご冗談を」
二人はこうして他愛もない話をしている。エリザベッタはその間に手紙を開いていた。
「これは」
それは父王からの手紙ではなかった。王冠と百合の紋章はダミーであったのだ。
「・・・・・・・・・」
それはスペインの言葉であった。
『親愛なる貴女へ』
それはカルロからの手紙であった。
「どういうこと・・・・・・」
どうやらロドリーゴは彼にこの手紙を渡してくれるよう頼まれたようだ。
しかし彼は自分とカルロの間にあるこの気持ちを知らないようだ。何故なら今彼女を見向きもしないからだ。どうやら本当にヴァロア家からの手紙だと思っているらしい。如何に心を割った友でも語れはしないことなのだから。
『私は貴女にお伝えしたいことがあります』
だが彼女はその揺れ動く気持ちを抑えた。そして平静を装い手紙を読んでいった。
『ポーザ侯爵ですが』
ロドリーゴのことである。彼等の関係は彼女も知っている。
『いざという時は彼を頼りにして下さい。彼は必ずや私達の助けとなるでしょう』
どうやら彼はいずれ自分達のことを彼に打ち明けるつもりのようだ。
(だけどそれは・・・・・・)
大変危険なことにもなりかねない。彼女はロドリーゴに目をやった。
彼はエボリ公女と話し続けている。美男子である彼は宮中においても人気があるのだ。
『近いうちに私はフランドルへ向かおうと考えています。その時までに一度二人でお会いしましょう』
そこで手紙は終わっていた。彼女は読み終えるとその手紙を服の中に隠した。
「御覧になられましたか?」
公女との話を終えたロドリーゴはエリザベッタに顔を戻した。
「え、ええ」
エリザベッタはその言葉にドキリ、としながらも何とか平静の表情で答えた。
「ところで殿下が言っておられましたが」
「息子が!?」
形式上の息子でしかないが。
「はい、何やらとても思い詰めておられるようです」
彼はフランドルの話の前置きの為にこう行ったのだ。フランドル行きを彼女が支持してくれれば心強い後ろ楯だからだ。
「一体何を」
フランドルのことは彼女はある程度は知っているつもりである。しかし何故彼がフランドルに行こうと考えているのかまではよくわからなかった。
「それは私にもよくわかりません」
彼は半分は知っていた。だがもう半分は知らなかった。その半分こそが重要であるというのに。
「ですがお母上がそれをお救いになれば殿下にとってまたとないお力になると存じます」
彼はカルロがエリザベッタを愛しているということを知らない。その為にこう言ったのだ。彼は彼女がフランドルについて支持して欲しかっただけだったのだ。
「私が・・・・・・」
彼女は真摯な表情を作って答えた。
「はい、陛下のお力添えが欲しいのです」
それは横から聞いている者がいた。
「殿下がお悩み?」
それはエボリ公女であった。
「そういえば殿下は」
彼女は考えはじめた。
「私が王妃のお側にいた時私に見られて震えておられたわ」
実は彼女はカルロを憎からず思っていた。勝気な彼女は繊細な彼をまるで弟の様に思っていたのだ。
「それならそうと早く仰ればいいのに」
彼女はそう思って内心で微笑んだ。
「私ならば何時でも殿下を受け止められるのだし」
彼女はカルロの気持ちを誤解してそう思った。その間にもエリザベッタとロドリーゴの話は続いていた。
「殿下は今孤独な立場におられます」
ロドリーゴはさらに言った。彼はカルロとフランドルをこの時無意識のうちにか重ね合わせていた。
「陛下はとてもお忙しい方で殿下と父子の間柄の関係には少し遠いものになっています。そして殿下は今ご自身を愛して下さる方を求めておられます」
(それはわかっています・・・・・・)
彼女は内心哀しい声で言った。
「あの」
そこで女官の一人を呼んだ。
「はい」
すぐにそのうちの一人がやって来た。
「我が子に伝えて下さい。今はこの僧院の中にいるのですね」
「はい」
「すぐにここに来るようにと」
「わかりました」
そして彼女は僧院に入っていった。やがてカルロが出て来た。
彼はエリザベッタの顔を見て青くなっている。それを見た公女は密かに思った。
(早く私にその気落ちを仰って下さればいいのに)
「あの」
そこでエリザベッタが皆に対し言った。
「これで何処かでお茶でも」
彼女は金貨を女官達の一人に手渡した。人払いである。
「わかりました」
皆頭を垂れその場をあとにした。こうして僧院の前にはカルロとエリザベッタだけとなった。
カルロはゆっくりとエリザベッタに歩み寄る。そして目を伏せて跪いて一礼した。
「お立ちなさい」
エリザベッタはそんな彼を立たせた。
「お話とは何ですか?」
彼は表面上は何とか平静を取り繕いながら尋ねた。
「母上にお願いがあって参りました」
カルロも息子として彼女に答えた。
「一体何をお願いに来たのですか?」
彼女はわかっていながらも再び尋ねた。それはいささか儀礼めいたものであった。
「私はフランドルに行きたいのです。どうもこのスペインの空気が合わないものでして」
「奇妙なことを仰いますね」
彼女はあえて冷たい声で言った。
「貴方はこのスペインの後継者だというのに」
「それは・・・・・・」
カルロはその言葉に対し息を詰まらせた。
「答えなさい、我が子よ」
彼女はこの時はまだ己を保とうとしていた。そして彼を自分の子と呼んだのだ。しかしそれが逆効果になってしまった。
「その名で呼ぶのは・・・・・・」
「それでは何とお呼びすればよろしいのでしょう?」
「・・・・・・・・・」
カルロは答えられなかった。重苦しい空気がその場を支配した。
「フランドルの件は私が陛下にお話しておきます。それではこれで」
彼女はそう言うとその場を去ろうとする。
「お待ち下さい!」
だがカルロはそれを急いで引き留めた。
「どうしたのです、まだ何か言う事があるのですか?」
「貴女は私に言うべき言葉がある筈です!」
カルロはエリザベッタの手を掴んで言った。
「何をですか!?」
彼女は今自分の心が大きく傾いたのを悟った。だがそれに対し必死にあがらった。
「離しなさい」
彼女は自分の手を掴むカルロに対して言った。
「はい・・・・・・」
カルロはその手を離した。
「唯一日とはいえ永遠に愛し合おうと誓ったというのに。貴女は何故私を避けられるのですか」
「それは・・・・・・」
今度はエリザベッタが言葉を詰まらせた。そして顔を俯ける。
「私が愛していたのは大理石の像なのですか!?心なぞ一切持たない。貴女は私に対して愛情など全く持ってはいなかったのですか!?」
「そんなわけでは・・・・・・」
彼女は自分の心の中にある本当の気持ちはよく知っていた。そして今それが大きく息を吹き返そうとしていることもわかっていた。
「私は愚かだった。その様な冷たい心の持ち主を愛していたとは。しかしこれで決心がついた」
「何をです!?」
エリザベッタはその声に顔を上げた。
「私は今すぐにフランドルに行きましょう」
そう言ってその場を去ろうとする。
「待って下さい、カルロ!」
エリザベッタはここでようやく彼の名を呼んだ。そして必死に呼び止めた。
「私の気持ちもわかって下さい。私は今言うことが出来ないのです」
「何故ですか!?」
「私は今貴方を一人の女として愛することが出来ないのですから・・・・・・けれど」
エリザベッタは振り絞るようにして言った。
「この私の沈黙の中にある言葉・・・・・・それを読み取って下さい」
彼女はカルロの背に抱き付いてそう言った。
「しかしそれは・・・・・・」
カルロの想いは今でも変わりはない。だからこそ、エリザベッタの気持ちがたまらなかったのだ。
「お願いです、それだけはわかって下さい」
「・・・・・・・・・」
カルロは沈黙した。そしてエリザベッタの方へ振り向こうとする。
だが出来なかった。何か、心の奥底にあるその何かが彼を動かさなかったのだ。
「そして貴方も心に留めておいて下さい。今は想ってもどうも出来ないものなのですから」
「そんな・・・・・・」
カルロにはそれが堪えられなかったのである。その中に燃える炎は誰にも消せるものではなかった。だからこそ彼はロドリーゴの言葉に従いそれをフランドルに向けようとしているのだ。
「いや、神はこう言われています。真実に従う者に誤りはない、と」
そして奥底にあるそれを振り切りエリザベッタに顔を向けた。
「私の気持ちは変わらない、貴女にだけ!」
そしてエリザベッタを抱き締めようとする。
「嫌っ!」
しかし彼女はその手を振り解いた。彼を愛する気持ちより王妃としても責任感が彼女をそうさせたのだ。
「やはり貴女は・・・・・・」
カルロはそれを見て絶望した顔になった。
「違います・・・・・・」
エリザベッタはそれを否定した。
「だけどわかって下さい、カルロ。私はもう貴方を」
「・・・・・・もういい」
カルロは絶望しきった顔でエリザベッタに背を向けた。
「これが私の忌まわしい運命なのだから」
そう言うとその場から姿を消した。
「何故こんなことに・・・・・・」
悲嘆したエリザベッタはその場に崩れ落ちた。そしてそこに大勢の者が来る気配がした。
「あれは・・・・・・」
見れば国王である。先程下がらせた女官や小姓、そしてロドリーゴもいる。
「む、あそこにいるのは我が妃ではないか」
その中心にいる一際威厳のある男がエリザベッタの姿を認めて言った。
細長い顔に高い鼻を持っている。唇は厚く下顎が出ている。背は高く姿勢はしかkりとしている。その風貌はカルロのそれと酷似している。服は質素であるがその威厳は周囲を圧していた。
この人物こそスペイン王フェリペ二世である。ハプスブルグ家出身でこの国のみならず中南米、そして多くの領土を支配する。欧州第一の勢力を治める者である。
カール五世の嫡子として生まれた。質実剛健で謹厳実直な人柄で知られている。父であるカール五世が庶民性を持ち民にまで深く愛されたのに対し彼は民から深く信頼されていた。
『国王は国家の第一の僕である』
彼の口癖であったが彼はその言葉通りに動いた。国政のあらゆることに耳を傾け目を向けた。贅沢を嫌いその宮殿も雄大ではあったが装飾は少なかった。
『贅沢は君主の敵である』
彼はそう考えていた。ハプスブルグ家は代々質素な生活を好んでいたが彼はそれを一際重んじた。そして宗教的な情熱も深かった。
よく彼は狂信的な旧教の支持者と言われた。だが熱心な信者であることは確かだが分別は持っていた。かって妻であったイングランドの女王メアリー一世の極端な弾圧をやり過ぎだと批判もしている。
しかし彼はハプスブルグ家の者である。やはり旧教は擁護しなければならない。彼はそのこともよくわかっていた。その為にフランドルでは血が流れていたのだ。
そしてあまりにも生真面目であった。それが彼をいささか孤独なものにしているのは否定出来なかった。彼は何よりも
規律を重んじていたのだ。
「何故一人でいるのか」
彼がまず問うたのはそれであった。
「我が宮廷においては王妃の側には常に誰かが控えていなければならないが」
「それは・・・・・・」
皆口篭もった。王妃にその場を離れるよう言われたことなど言うに言えないからである。
「答えるのだ。今日のお付の女官は誰だ?」
「私です」
一人の女官が進み出た。
「ふむ、そなたか」
国王は彼女を一瞥した。
「宮廷の法は知っていような」
「はい」
彼女は頭を垂れて頷いた。
「暇を与える。故郷に帰るがいい」
「わかりました」
彼女は泣きながらその場を去ろうとする。
「お待ち下さい、陛下」
そこにロドリーゴが進み出た。
「どうした、侯爵」
国王は彼に顔を向けた。
「あの女官は王妃様の親しい友人です。ここは大目に見て差し上げるべきかと」
「法は法だ。曲げるわけにはいかん」
彼は毅然として言った。その言葉には誰も逆らえそうになかった。
「それですが」
だがロドリーゴはそれにも臆することなく言った。
「今法は伝えられました。ですが恩赦もあるのではないでしょうか」
「ふむ」
国王はその言葉を聞くと顎に手を当てて考え込んだ。
「皆はどう思うか」
そして周りの者に対し問うた。
「侯爵の仰るとおりだと思います」
皆そう答えた。
「そうか。ならばここは許すとしよう」
彼は落ち着いた声でそう言った。
「これ」
そして立ち去ろうとしていた女官を呼び止めた。
「そなたの暇を取り消す。だが暫くの間謹慎しているがいい」
「わかりました」
そして女官はその場を去った。
「妃よ」
そしてエリザベッタに顔を向けた。
「これでよいな」
「はい」
エリザベッタは静かに頭を垂れた。
「陛下の深い御心、感謝致します」
「礼はよい、わしは法を忠実に施行したまで、そして周りの者の言葉を聞き入れただけだ」
彼は喜ぶこともなくそう言った。
「ところで王太子の姿が見えぬが」
彼はカルロの姿が見えないことに気がついた。
「既に宮廷に帰られたようです」
ロドリーゴが答えた。
「そうか。僧院への参拝は済ませたのだろうな」
「はい、それはもう」
「ならば良い。しかし共の者も連れず一人で去るとは感心さぬな。後で言って聞かせるとしよう」
「御意に」
彼はエリザベッタに顔を戻した。
「妃よ、そなたも宮廷に戻るがいい。そして明日に備えゆっくりと休むのだ」
「わかりました」
エリザベッタは再び頭を垂れそれを了承する。そして女官達と共にその場を後にする。
ロドリーゴもそれに従おうとする。だがそれを国王が制した。
「待て、わしはもう少しこの場に用がある。護衛をせよ」
「わかりました」
ロドリーゴはその言葉に従った。
「さて、侯爵よ」
国王は彼を見て言った。
「近頃宮廷にあまり姿を現わさないのはどういうことか?」
「体調が優れませんので」
彼は国王の問いにそう言って誤魔化した。
「見たところそうは思えんが」
国王はそんな彼の顔を見ながら言った。
「心の方でして」
「ほう、心か」
国王はその言葉に眉を動かした。
「それならば気晴らしに宴でも行ってはどうか。わしは宴はあまり好まんが」
「それは私もです」
「だが時には酒も必要だ。人間はパンと水のみによって生きているのではない」
「それは存じております」
「フム、そなたは堅いな。だがそれがいい」
国王はそんなロドリーゴを見て微笑んだ。
「わしはそなたのその心持ちが好きなのだ。気位の高さもな」
「有り難うございます」
「ところで軍務を離れたのだったな」
「はい」
「それは良くないな。そなたの才はこのスペインにとって欠かせぬものなのだ」
「有り難きお言葉。私は陛下が、そしてスペインが必要とされる時に再び剣を取りましょう」
「今はその時ではないというのか」
「お言葉ながら」
「ふむ」
国王はその様子に彼の本心を探ろうとした。
「何かあったようだな」
そして彼の顔を見ながら言った。
「この前フランドルに行っていたが」
それを聞いたロドリーゴの顔色が変わった。
「あれは軍務であったがな」
「はい」
「その時に何かあったのか」
「いえ・・・・・・」
ロドリーゴは顔を俯けてそれを否定した。
「まあ良い、それは聞かないでおこう。戦場では色々とあるからな」
「有り難うございます」
彼はこうした心遣いも出来る。血脈のみで王をしているわけではなかった。
「ですが私は今心の中にあるものを申し上げたいと思います」
「そうか」
これは国王にとって意外であった。彼は聞かないつもりであったがその心遣いにロドリーゴの方が感じ入ってしまったのだ。
「今フランドルは血にまみれております」
「・・・・・・・・・」
国王は沈黙した。黙して聞いていた。
「あの美しかったフランドルが今や焼け野原になり戦火に焼かれております。川は血で赤く染まり親を亡くした子供の泣き声が木霊しております」
「・・・・・・そうか」
ロドリーゴは話を続けた。
「人骨が石の様に転がり食べるものもなく餓えた者達が死を待つばかりです。陛下、今フランドルは地獄なのです」
「それは全てあの新教徒共のせいだ」
彼は顔を顰めて言った。
「あの者達は我がスペインに対して反旗を翻した。それは許されるものではない」
「ですが陛下」
「侯爵よ、あの者達の実態は知っているか」
「いえ」
ロドリーゴは王の言葉の前に畏まった。
「あの者達は確かカルヴァンというフランスからスイスに移った男の教えを守っているのだな」
「はい」
「わしはあの男を知っている。極めて厳格て潔癖な男だ」
「はい」
「だがあのルターと同じ教えではないか。どうしてあのようにいがみ合うのだ?」
実ルター派とカルヴァン派の対立は深刻であった。彼等は旧教に対するよりも更に激しくお互いを憎しみ合っていたのだ。
「我等とて多くの問題がある。ハプスブルグとヴァロワは信じる神は同じだが不倶戴天の敵同士だ」
これは長くから、そう彼の曽祖父マクシミリアン一世の頃より変わらない。彼の父カール五世はイスラムのオスマン=トルコだけでなくフランスともイタリアやフランドルを巡って激しく対立していた。
「あの好色な男の時より前からフランスはイタリアを狙っていたのだ」
フランス王フランソワ一世のことである。彼はイタリアに攻め込んでいる。カール五世もそれに対抗した。しかも時のローマ教皇は反ハプスブルグ派であった。しかもそこに新教徒まで入っていた。イタリアは大混乱に陥っていた。
このフランソワ一世も時の教皇クレメンス七世も狸であった。彼等は激しくカール五世と対立した。そして遂にローマで衝突が起こった。『サッコ=ディ=ローマ』である。古の都ローマは灰燼に帰した。
「あの時までバチカンは我等に何かと嫌がらせをしてくれた。しかしあの男が出ると態度は一変した」
その男こそマルティン=ルターである。
「バチカンは信仰で動いているのではない。政治、そして自らの権勢の為にのみ動くのだ。言っておくが神を信ずる教皇などこの世にはおらんぞ」
そのことは彼が最もよく知っていた。
「だが我々はそのバチカンを護らずにはおれぬのだ」
神聖ローマ帝国、その王冠はローマ教皇より授けられる。神聖ローマ帝国皇帝、すなわちハプスブルグ家とは教会を護ることがその責務であるのだ。それを否定することは出来ない。カール五世もバチカンには手を焼いていた。彼はエラスムスに共感するところが多かった。しかしそれでもバチカンの守護者であったのだ。
「それがわからぬ卿ではあるまい」
「はい・・・・・・」
それはロドリーゴにもわかっていた。だがそれでもフランドルのことを思うと言わずにはおれなかったのだ。
「ですが陛下、フランドルの民は」
「言うな」
王は首を横に振った。
「言っただろう、ハプスブルグ家はバチカンの守護者なのだと」
「は・・・・・・」
ロドリーゴはその言葉に対し片膝を折った。
「世界には神以外にはどうすることも出来ないことが多々あるのだ。わしはこのスペインの王だ。だがわしも人間に過ぎない。わしはこの領地の下僕なのだ。わしが出来ることはこの領地とそこにいる民達の中の最も多くの者の幸福を守ることなのだ。だがそれでも果たせぬことがある。いや、果たせぬことばかりだ。わしは皆が思っている程無限の力を持っているわけではない」
「・・・・・・・・・」
今度はロドリーゴが沈黙した。それは彼もよくわかっていたのだ。だがそれを理解出来ない者が殆どなのだ。人の力など知れているということが。
「特に教会はな。ドイツ程ではないがここにもバチカンの目が光っている」
異端審問官だ。バチカンが作り出した最も忌まわしいものであろう。魔女狩り、欧州をそのドス黒い炎で覆った邪悪な悪行だ。
これもまた旧教と新教の対立の中で激化していった。皆悪魔を恐れていた。悪魔は魂を奪い地獄に導くと。だが彼等は気付いてはいなかった。人の心に地獄があり悪魔もまた人の心に棲むのだと。
欧州の空は魔女と断定された哀れな女達を焼く炎と煙で赤と黒に染められた。青い空はその中に消えていった。自白、密告、陰謀、嫉妬、憎悪・・・・・・。人々の心から神は消え悪魔が棲んだ。否、それは悪魔であったのだろうか。悪魔とは何ぞや、と言われると神の反逆者である。元々は異教の神であったり天使であったのだ。失楽園等に見られる彼等は悪であろうか。彼等もまた正義なのではなかろうか。正義とは一つではないのだ。
人の心には光も闇もある。ここに出て来たのは闇であった。それは悪魔よりも邪悪なものであった。
血生臭い拷問に処刑・・・・・・。そこには人の光はなかった。ただ闇があった。その中で多くの者達が苦悶のうちにその命をすり潰されていった。まるで物のように。ドイツでもスペインでもイングランドでも。このスペインでも王の言葉通りドイツ程ではないが彼等がいたのだ。
「あの者達の後ろにはバチカンがいる。わしとてそうそう手出しができるものではない」
「はい・・・・・・」
「侯爵よ、立つがいい。卿に跪くのは似合わぬ」
「勿体無き御言葉」
彼は王に促され立ち上がった。
「卿は怖れぬな。だが怖れを知っている」
意味深い言葉であった。
「だがそんな卿だからこそわしは気に入ったのだ」
彼は言葉を続ける。
「わしの家族を見てどう思う」
「それは・・・・・・」
これにはさしものロドリーゴも言葉を詰まらせた。
「わしはあまり家族の愛を知らぬ」
彼は幼い頃に母と死に別れている。そして一度目の結婚は妃に先立たれ二度目の結婚はあのメアリー一世であった。狂信的な旧教徒である彼女を彼はどうしても愛せなかった。そして彼女は子供が産めなかった。やがて彼はスペインに戻った。それから程なくして彼女もこの世を去った。
「今はエリザベッタがいるが」
「大変聡明でお美しいお方ではないですか」
「だが幸福とはそれで訪れるものなのか?」
「それは・・・・・・」
やはり彼は答えられなかった。幸福なぞというものは自分以外の誰にもわかりようがないものなのだから。
「わしは気になって仕方がないのだ」
王の顔は暗さを増していく。
「何がでしょうか?」
ロドリーゴはようやく尋ねることが出来た。
「妃と息子のことだ」
「殿下が!?」
「そうだ。まさかとは思うが」
王の顔は一言一言ごとに暗さを増していく。
「取り越し苦労であれば良いが。だが疑惑は晴れぬのだ。いや、一刻ごとに増していく」
「それは杞憂です」
「そうとも言い切れぬ。少なくともわしにとってはな」
「・・・・・・・・・」
最早その顔は闇の中に消え入りそうであった。
「卿に頼みがあるのだ」
「はい」
王はここでその顔の闇を何とか消そうとした。そして完全ではないが幾分かは消した。
「あの二人をよく監視してくれ。間違いがないようにな」
「わかりました」
ロドリーゴはそれを聞いてカルロが何故あのように思い詰めているか理解した。
「わしは卿を信じる。それに応えてくれよ」
「御意に」
ロドリーゴは頭を垂れた。
「頼んだぞ、全ては卿にかかっている」
「はい・・・・・・」
ロドリーゴは顔を上げた。そして意を決した。
(陛下と殿下、そしてフランドルをお救いするには)
彼はカルロがいる宮殿に顔を向けた。
(やはりあれしかない)
その瞳に強い思いが宿った。
「侯爵」
そこで王が彼を呼んだ。
「はい」
彼はその声に応え再び顔を向けた。
「期待しているぞ」
「わかりました。必ずや陛下のご期待に添えます」
王は右手を差し出した。ロドリーゴはその前に跪きそれに接吻をした。
そして二人はその場を後にした。後には何も残ってはいなかった。
ロドリーゴの考えって何だろうな。
美姫 「本当に何かしらね。でも、悪いようにはしないでしょうね」
だろうな。さてさて、どんな風に話が展開するのか楽しみだな。
美姫 「ええ、本当に」
次回も楽しみにしてますね。
美姫 「それじゃ〜ね〜」