『アラベラ』




          第三幕 二人の世界へ


 アラベラのいるホテルはこのウィーンでも豪華なことで知られている。だからこそヴェルトナーもここに居を決めたのである。洒落者の彼がいたく気に入ったのである。
 そのホテルに今一台の橇が着いた。そしてそこから一人の女性が姿を現わした。
「御苦労様」
 彼女は橇の御者に微笑んで言葉をかけた。御者は金を受け取るとその場を後にした。彼女はそれを見送るとホテルのホールに入った。
「ふう」
 その入口でクロークを脱ぐ。雪を払うと入口にかけた。
「これで全ては終わったわ」
 その女性、アラベラは彼女自身に微笑んでそう言った。
「これで私はあの人のもの。これからは永遠に一緒なのね」
 彼女もマンドリーカに心を奪われていた。彼は彼女が夢にまで見た理想の人なのであった。
「もうすぐあの人と一緒にあの人の国へ入る。そしてそこで静かに暮らすのね」
 早くそうしたくてならなかった。彼女は華やかな舞踏会よりも心の幸せを願っているからだ。
 彼女はゆっくりと自分達の住む二階の部屋に入ろうとする。まずは階段を上がる。古いが頑丈な造りの木の階段である。そこでその部屋の扉が開いた。
「あら」
 最初はそれを見てズデンカだと思った。
 だがその予想は外れた。中から出て来たのはマッテオであった。
「えっ・・・・・・」
 マッテオは彼女の顔を見て驚いた顔をした。
「どういうことなんだ!?彼女は確かに」
 今出て来た部屋を見る。
 それからアラベラを見る。だがまだ腑に落ちない顔をしている。
「あら、マッテオ」
 ここでアラベラが彼に声をかけてきた。
「どうしたの?ズデンコなら舞踏会にいるわよ」
 彼女は妹の真意と行動について全く何も知らなかった。だからこう言ったのだ。
「ズデンコって」
 しかし彼はまだ腑に落ちない顔をしていた。
「一体何を言っているんだ!?」
「何って」
 無論彼女にもわかってはいない。
「今さっき」
「帰って来たばかりですが」
 アラベラはそう言った。
「舞踏会から」
「馬鹿な」
 だがマッテオはそうは受け取らなかった。
「抜け出たではありませんか、その舞踏会から」
「いえ」
 しかしアラベラはそれを否定した。
「区切りがついたところで帰りました。そして今ここに辿り着いたのです」
「またそんな」
 無理して苦笑する顔を作った。
「そんな筈がありません」
「いえ、本当です」
 さらに訳がわからなくなってきていたがそう答えた。
「その証拠にほら」
 ここで手に付いた雪に気がついた。丁度いいのでそれを見せる。
「手に雪がまだ付いていますでしょう?」
 その雪を見せる。見れば結晶が灯りに照らされ輝いていた。
「しかし貴女は」
「申し訳ありませんが」
 アラベラはまだわからないことばかりであったが疲れていたのでもう休みたかった。それで彼に対して言った。
「部屋に入れて頂けませんか?今日はもう休みたいので」
「休む?一人で」
「ええ。勿論」
 彼女はそう答えるしかなかった。
「少なくとも今宵までは」
「そう、今宵までは」
 マッテオはそれを受けてそう言った。
「だが明日からは違うんだね」
「ええ」
 ここで彼女は彼が何故そう言うのか不思議でならなかった。彼女とマンドリーカのことは知らない筈なのに。そして彼女が今日で娘時代と別れることも。
「しかし僕は違うんだ」
「どういうことですか!?」
 彼女は話をしながら彼が普段の彼とは様子が少し異なることに気付いた。
「いい加減にしてくれませんか」
 彼はアラベラの態度に遂に痺れを切らした。
「何をですか!?」
 だが彼女にはまだ何もわかってはいなかった。さらに首を傾げた。
「私には貴方が私に何を仰りたいのかよくわからないのですが」
「アラベラ!」
 彼はここで語気を少し荒わげた。
「何を言っているんだ、とぼけるのもよしてくれ」
「とぼけてなんかいませんわ」
 彼女は少し腹立たしさを感じながらも穏やかな言葉で返した。
「先程も申しましたように私は今帰ってきたばかりですから」
「またそんなことを言う」
 彼は次第に顔を曇らせてきた。
「あの時君は」
「あの時とは」
 彼女はすぐに返してきた。
「さっきのことを忘れたとは言わせないよ」
「ですから私は」
 今帰って来たばかりだと言おうとした。しかしマッテオがそれを遮った。
「もうよしてくれ、僕を惑わせるのは」
「マッテオ、落ち着いて下さい」
「僕をそうさせているのは君だろう、それで何故そんなことが言えるんだ」
 その声は次第に荒く大きくなってきた。やがてホテル全体に響き渡るのではないか、と思える程になった。
「言うも何も私は真実を申し上げているだけです」
「では真実は幾つもあるのか。そんな話は聞いたことがない」
 マッテオはさらに言った。
「真実は一つしかないんだ、じゃあ君は嘘を言っていることになる。そして僕を惑わしているんだ」
「マッテオ、それ以上言うと」
 流石にアラベラも怒りを露にしはじめた。目を顰めさせる。
「じゃあ本当のことを言うんだ」
「何度お話してもわかって頂けないようですが」
 二人はホテルの前の廊下で言い合う。そこで誰かがホテルの扉を開けた。
「どうぞ」
「うん」
「娘は」 
 まずはアデライーデが入って来た。そしてコートをそのままにホテルの中を見回す。そこで言い争う娘とマッテオが目に入った。
「いたわ!」
 そしてすぐにアラベラの下に駆け寄った。
「アラベラ!」
「御母様」
 彼女は母の声を聞いて我に返った。そして冷静さをすぐに取り戻した。
「どうしたのです、こんなところで」
「申し訳ありません」
 彼女は恐縮してそう答えた。
「少し事情がありまして」
「事情!?それは何です」
「はい」
 アラベラは母に説明しようとした。そこで他の者も入って来た。
 ヴェルトナーがいた。そして彼の友人達も。他にも何人かいる。
 最後にはマンドリーカが入って来た。彼は廊下の部屋の前を見上げて顔を歪ませた。
「やはり」
 彼はここであの時の話を思い出した。
「間違いない、あの男だ。私の予想は当たったようだな」
 そしてヴェルトナーに顔を向けた。
「伯爵」
「何だね」
 事情がわからず首を傾げている彼に声をかけた。
「申し訳ありませんがこれで帰らせて頂きます」
「何っ!?」
 彼はそれを聞いて思わず声をあげた。
「それはどういうことだ」
「あれです」
 彼は答えずにアラベラとマッテオを手で指し示した。そして自分の従者に対して言った。
「すぐに荷造りだ。明日の朝の一番の列車で帰るぞ」
「おい、何を言っているんだ」
 ヴェルトナーは慌てて彼を引き留めようとする。
「少し待ってくれ。まだ何もわかっていないじゃないか」
「私にはもう全てわかっております」
 彼はそれに対してすぐに言葉を返した。
「ですから立ち去らせて頂くのです」
「だから待ってくれというのだ」
 ヴェルトナーはそれでも必死に彼を引き留めた。そしてアラベラに顔を向けた。
「アラベラ」
「はい」
 彼女は父に顔を向けた。
「御前に事情を聞きたい。いいな」
「はい」
 彼女はそれを受けて頷いた。
「まずマッテオ君のことだが」
「はい」
「一体何がどうしたのか説明してくれないか」
「わかりました」
 彼女は父に答えた。
「私はつい先程ここに戻ってきたばかりです。そしてマッテオにこの前で御会いしたのです」
「その言葉、偽りはないな?」
「全ては御父様が最もよく御存知の筈です」
「よし」
 彼はそれを聞き安心した顔になった。そしてマンドリーカに顔を向けた。
「娘の言葉に偽りはありません。これでおわかりでしょう」
 だがマンドリーカの顔は晴れてはいない。それでも彼は言葉を続けた。
「神に誓って言いましょう、娘は嘘は言わない、そして会場には間違いなくいた。疑うことはありません」
「信じられるというのですか!?」
「無論」
 彼はマンドリーカに対して力強い声を返した。
「アラベラは誇り高い娘です。そして人の道を知っている。決して嘘なぞ言ったりはしません」
「嘘だ」
「嘘ではありません。それは私が保障しましょう。これは単なる空騒ぎ、よくあることです」
 そして友人達に振り向いた。
「ではゲームの続きをしましょうか。確か私の一人勝ちの状況でしたな」
「ええ」
 友人達はそれに答えた。
「ならばこのまま勝ち続けたいですな」
 にこりと笑ってそう言った。
「それはなりませんぞ」
「そうそう、我々にも勝たせてもらわないと」
 彼等はそう言葉を返した。そして彼等はヴェルトナーと共に場所を移ろうとする。だがマンドリーカがそれを許さなかった。
「フロイライン」
 彼はアラベラを見上げた。そして呼んだ。
「貴女は私に滑稽な道化の役を演じさせようと考えておられる。だが私はそれをお断りさせて頂きます」
「まだその様なことを」
 アデライーデはそれを聞いて嘆きの声をあげた。ヴェルトナーも身体を戻した。
「まだ信じようとなされないのか」
「これで信じられると思っているのですか」
 マンドリーカは不快感を露わにしてそう言い返した。
「侮辱されて我慢していられる程私は温厚ではありませんぞ」
「侮辱」
 ヴェルトナーがその言葉に血相を変えた。
「アラベラが人を侮辱する様な女だと言いたいのか」
「少なくとも私にはそう思えます」
 彼はそう返した。
「それ以外にどう考えられるのですか」
「まだ言うか」
 ヴェルトナーは次第に怒りを露わにしてきた。
「一体何を仰っているのですか!?」
 アラベラは上からマンドリーカに対して声を送った。
「私が人を侮辱するなんて。幾ら何でも」
「ではどう言いましょうか」
 彼はもう遠慮しなかった。あからさまに怒りを見せている。
「これ以上はない屈辱を受けているというのに」
「屈辱だなんて」
 彼女はそれを聞いて一瞬顔色を失った。
「私が何時貴方に屈辱を与えたというのですか」
「誤魔化すのもいい加減にしてもらいたい、私にだって耳や目はあります」
「それはわかっております」
「そしてそれは決して悪くはありません。だからこそ見えますし聞こえるのです」
「それで娘を侮辱していいというものではないぞ」
 ヴェルトナーが入ってきた。
「待って下さい」
 ここでマッテオも降りてきた。
「これは私の問題です。私が解決しましょう」
「君が!?馬鹿を言え」
 ヴェルトナーはそれに対して軽くあしらうようにして言った。
「君が一体何をするというのだ。何も関係ないというのに」
「関係はあります」
「ではそれは何だね!?」
「それは・・・・・・」
 それを言おうとしたところでマンドリーカが言った。
「君が言うのか」
「ええ」
 彼はマンドリーカに対して頷いた。
「よし、ならばいい」
 マンドリーカは了承したように頷くとアラベラに顔を向けた。
「よろしいですかな」
「何をですか!?」
「彼が何を言うか。それを認めて下さいますね」
「勿論です」
 アラベラには隠すことなぞなかった。拒む理由もない。彼女はそれを了承した。
「よろしい」
 だがマンドリーカはそれを彼女が観念したと思った。
「これでよし。覚悟されたようですな」
 ここでホテルの他の客達が姿を現わした。そしてガヤガヤと騒ぎを取り囲んだ。
「何があったのだ?」
「伯爵の娘さんが何かされたようだが」
 そして遠巻きに騒ぎを見だした。ヴェルトナーはそれを見てさらに不快な顔になった。
「マンドリーカ君」
 彼はマンドリーカに声をかけた。
「私は確かに破産寸前にまでなった情ない男だ。だが軍人として、そして父親としての誇りは持っているつもりだ」
「はい」
 マンドリーカも彼に顔を向けた。
「娘を侮辱されて黙っていられる人間ではない。これだけ言えばわかるだろう」
「勿論です」
「ならば話が早い。では拳銃を用意してくれ。私は既に持っている」
 彼もかっては軍人であった。拳銃は持っている。
「表に出たまえ。そして決着をつけよう」
「望むところです。しかし私は」
 彼はマッテオに顔を向けた。
「彼ともけじめをつけなければならないようですが」
「喜んで」
 マッテオもそれに返した。
「僕・・・・・・いえ私も将校としての誇りがあります。この事態の責任をとらせて頂きます」
「よし」
 マンドリーカはそれを聞いて頷いた。
「では行こう。そして全てを終わらせるのだ」
 アラベラはそれを黙って見ていた。蒼白となりながらも気丈な顔を崩してはいない。
「私を信じて下さらないのなら」
 潔白であることは彼女自身が最もよくわかっている。だからこそ言える言葉であった。
「これからの生活も送ることはできないわ。これで壊れるのなら」
 彼女は言葉を続けた。
「それで終わりだわ。所詮それまでだったというだけのこと」
 既に修道院に入る覚悟もできていた。娘時代に別れを告げたのは覚悟を決めた背景もあった。
 全てを観念しようとしていた。これで壊れるのならそれまでであった。
「私はあの人を最後まで信頼して愛する。そしてあの人は私も口で言うのは本当に簡単だけれど実行するのは難しいのね」
 そうであった。彼女はそれはわかっているつもりであったがいざとなるとここまで難しいものだとは思わなかった。
「フロイライン」
 マンドリーカはここで振り返ってアラベラに声をかけた。
「これでもまだ嘘をつかれるのですか」
「何度も申し上げた通りです」
 アラベラは毅然として言い返した。
「私は嘘は申してはいませんと」
「そうか、ならいい。わかった」
 マンドリーカはここで従者に言った。
「お医者さんを呼んでくれ。夜遅くで悪いがな」
「はい」
 それが決闘の後の手当ての為であるのは言うまでもない。
「では証人は」
「そうだな」
 彼はそこで暫し考えた。
「伯爵、貴方の御友人の方々でよろしいでしょうか」
「ふむ」
 ヴェルトナーはここで友人達に顔を向けた。
「私共でよければ」
 彼等はそれを了承した。これで全ては決まった。
 だがここで思わぬ乱入者が出て来た。
「お父さん、待って!」
「その声は!」
 ヴェルトナーとアラベラは声がした方に顔を向けた。アデライーデもである。
 それはホテルのアラベラ達の部屋の前であった。そこに彼女がいた。
「ズデンカ」
 彼等は思わず彼女の名を呼んだ。ズデンカは女性の部屋着を着ていた。
「ズデンカ!?」
 マッテオはその名を聞いて眉を顰めた。
「ズデンコじゃないのか!?」
 そしてヴェルトナーに顔を向ける。
「伯爵、これはどういうことですか。彼は男ではなかったのですか」
「むむむ」
 答えるに答えられない。彼は顔を顰めさせるしかなかった。
「実はな」
 だがこうなっては仕方がない。彼は真相を言おうとした。だがそうした悠長な状況ではなかった。
「誰だあの美しい娘は」
「はじめて見るぞ」
 ホテルの者達は彼女を見て口々にそう言う。そして別の話題に移った。
「伯爵の御令嬢か?」
「アラベラ嬢だけではなかったのか?」
「いや、確か御子息がおられた筈だが」
「では彼女は」
 アラベラは妹の側に来た。そして優しい声をかけてきた。
「ズデンカ、どうしたの?そんなに取り乱して」
「姉さん」
 彼女は姉を見上げた。姉は彼女の顔を見て微笑んでいる。
「話して御覧なさい。落ち着いてね」
「はい」
 姉にそう言われ彼女は次第に落ち着きを取り戻してきた。そして話しはじめた。
「まずはマッテオのことですが」
「僕のことかい?」
 彼にはもう何が何だかわからなかった。
「その前に待ってくれ」
 彼は逆にズデンカに問うた。
「君は本当にあのズデンコなのかい?女の子だったのか?」
「はい」
 彼女はその問いに対して頷いた。
「御家の事情があって。今まで男の子として育てられたの。それで」
「そうだったのか」
 彼はそれを聞いて話の一部を理解した。
「では君の本当の名前はズデンコじゃなかったんだね」
「ええ」
「ズデンカだったんだ」
「そうよ。御免なさい、今まで隠していて」
「いや、いいんだよ」
 マッテオはそれを許した。
「君は僕の親友でいてくれた。そのことには心から感謝しているから」
「有り難う」
「けれどもう一つ聞きたいことがあるんだ」
「それは」
「その僕のことだけれど。一体何なんだい」
「ええ」
 ズデンカはそれを受けて姿勢を整えた。そして語った。
「今の騒ぎだけれど」
「うん」
「貴方には罪はないわ。罪があるのは私」
「それはどういうことだい」
「ズデンカ」
 アデライーデがここで娘の話を止めさせようとする。恥をかかせたくはなかったからだ。だが彼女の夫がそれを遮った。
「貴方」
「ここは話させてあげよう。あの娘の為に」
「それは」
 反論しようとした。だが夫の顔を見てそれを止めた。父親の顔であるからだ。
「わかりました」
 彼女は頷いた。それを受けてヴェルトナーはズデンカに対して言った。
「さあズデンカ、話しなさい。私がいるから」
「お父さん」
「私もよ」
 アラベラはやはり側にいた。
「だから安心して。貴女は一人ではないから」
「ええ」
 ズデンカは頷いた。そして再び語りはじめた。
「先程部屋の中で貴方に御会いした人は」
 マッテオに向けて話す。マッテオは黙ってそれを聞いている。
「私なのです」
「えっ、じゃあ君・・・・・・いや貴女は」
「そうよ。貴方を騙したのよ。姉さんと偽ってね」
「何故そんなことを」
「それは聞かなくともわかるだろう」
 ヴェルトナーがマッテオに対して言った。
「君も男なら。それ以上私に言わせるつもりかね?」
「いえ」
 彼はその言葉に首を横に振った。
「わかりました。ようやく全てが」
「そうか。ならばいい」
 ヴェルトナーは父の顔でそれに応えた。
「ではズデンカ、御前の責任の取り方はわかっているね」
「はい」
「それならいい。ではマッテオ君」
 マッテオにも声を向けた。
「娘の愚かな行為を許してやってくれ。この愚かな父に免じて」
「いえ」
 だがマッテオはここで首を横に振った。
「許されるべきは私です。何も知らずにこの様な騒動を起こしてしまいました」
「それは私が」
「貴女は関係ない」
 ズデンカに対して言った。
「私が貴女に気付いていればこんなことにはならなかった。そして今私は貴女の気持ちに応えたいと心から思っています」
「じゃあ私は貴方の・・・・・・」
「そうです。これからも側にいてくれますか」
 彼のその顔はもう親友への顔だけではなかった。
「親友として、そして私の生涯の伴侶として」
「はい・・・・・・」
 ズデンカはそれを了承した。こうして二人の輪は出来上がった。
「私達も愚かなことをしていた」
「はい」 
 ヴェルトナーとアデライーデの夫妻はそれを見て目を伏せていた。
「ズデンカに対してあまりにも酷いことをしてきた。その罪は重い」
「はい、わかっております」
「だがこれからは二人の為に全てを捧げよう。今までの償いの為に」
「そうですね。これからはあの娘の幸せの為に生きましょう」
「うん、そうしよう」
 マッテオとズデンカは固く抱き合っていた。そしてそのまま場の端へ向かった。
 その場にいた全ての者が二人を祝福した。彼等は今その道を二人で歩きはじめようとしていた。だがその祝福の場で一人後悔の念に苛まれている者がいた。
「全ては私の早とちりだったのか」
 マンドリーカは暗澹たる顔でそう呟いた。
「あの娘がまさか彼だったとは。そしてこのような真相だったとは。知らなかったとはいえ私は何ということをしてしまったのか。彼女に何ということを言ってしまったのか」
 後悔と自責の念が彼を支配する。だがどうにもならない。そこへ従者が戻って来た。
「旦那様、拳銃をお持ちしました」
「そうか」
 彼はそれを受けて応えた。
「だがそれは私の為だけに必要となってしまったな。お医者様よりも神父様の方が必要なようだな」
「といいますと」
「すぐにわかる」
 彼は溜息混じりにそう答えた。
「すぐにな」
「はあ」
 そして彼はアラベラに顔を向けようとする。だがとても顔を向けられない。
「どうしたらいいのだ。彼女は私を許してはくれまい」
 彼は今責任の取り方について考えていた。
「彼女の恥を注ぐには私が自らを処断するしかない」
 そしてそう結論付けていた。
「それは・・・・・・拳銃しかないだろう」
 心の中でそう考えていた。そこでアラベラがやって来た。
「フロイライン」
 アラベラはにこりと微笑んだ。優雅で気品のある笑みであった。
「いや、私はその笑みを向けられるに値しない者です」
 彼はそれを振り払おうとした。
「それはこの騒動でよくおわかりの筈です」
「いえ」
 だがアラベラはそれを否定した。そして彼の手をとった。
「勿体ない」
 だがその手を振り払うことは許されてはいない。
「その様な」
「マンドリーカ伯爵」
 彼女はここで彼の名を呼んだ。
「私はこう考えています。永遠の絆はどの様な困難にも壊れはしないのだと。私達は永遠の絆を誓いましたね」
「それを壊したのは私です」
「壊れはしませんわ。そしてそうした困難を乗り越えなくて何が絆でしょう。今夜の出来事はそうした困難の一つに過ぎないのです」
「困難の一つに過ぎないのですか」
「はい。ですから私はあえて申し上げます。その絆を結びつけるものは愛と」
 言葉を続けた。
「信頼であると」
「信頼」
「はい」
 彼女はここでまたにこりと微笑んだ。
「そうです。信頼があれば絆は決して壊れはしません」
「しかし私は貴女の信頼を裏切りました。こともあろうに貴女を疑い侮辱してしまった」
「いえ」
 だがアラベラはその言葉に対して首を横に振った。
「私はそうは思っておりませんわ。それよりも」
 彼女はここで妹達に顔を向けた。
「あの二人を御覧下さい」
 そこには固く抱き合い仲睦まじいマッテオとズデンカがいた。
「今はあの二人も祝って欲しいのですが」
「彼等を」
「はい。私の可愛い妹の幸福を」
 その目は温かいものであった。妹を見守る姉の目であった。
 ズデンカはこの時両親にも囲まれていた。
「お父さん、お母さん」
「ズデンカ、今まですまなかったな」
 彼等は娘とその恋人を囲んでいた。そしてそれまでのことを謝罪していた。
「いいんです。仕方ないことだったから」
「そう言ってくれるか。優しい娘よ」
「優しいだなんて。お父さんとお母さんは私にいつも優しくしてくれたし」
「恨んではいないのね」
「どうして恨むの。お母さんを。私を育ててくれたのに」
「そう、そう言ってくれるの」
 アデライーデはその言葉を聞いて涙を一粒落とした。それは床に落ちてはじけた。
「嬉しいわ。そして神に感謝します」
 そしてズデンカを抱き締めた。
「この様な心優しい娘を私の様な愚かな母に授けて下さったことを」
「お母さん・・・・・・」
 ヴェルトナーはマッテオの方に歩み寄った。そして彼に対して言った。
「娘を頼む」
「はい」
 マッテオは頷いた。
「私の様な者でよければ。彼女を生涯かけて愛することを誓います」
「頼むぞ。私は幸せ者だ」
 ヴェルトナーもそこで涙を落とした。
「二人の素晴らしい娘を持つことができたのだからな。これは自慢になってしまうが」
「いえ」
 マッテオはそこで首を横に振った。
「それは私の言葉です。ズデンカは私にとっては過ぎた人です」
「過ぎた人」
「はい。今までずっと私のことを案じ、愛してくれたのですから」
 そう言いながらズデンカに顔を向けた。ズデンカも彼を見ていた。
「永遠に二人でいよう」
「はい・・・・・・」
 そして二人は再び抱き合った。そして絆が結ばれたのであった。
「これで終わった」
 ホテルの客達はそれを見て安心したように微笑んだ。
「では眠ろう。輝かしい明日の為に」
「ああ」
 彼等はそれぞれの部屋に帰っていく。ヴェルトナーは友人達に対して言った。
「どうやら全てが終わったようです。これからどう致しますか」
「それは決まっております」
 彼等の中の一人がそう言った。
「幸福は祝福される為のもの。違いますかな」
「確かに」
 彼はそれを受けて微笑んだ。
「では行きますか」
「はい。貴方達の娘さん達の祝福を乾杯する為に。朝まで付き合いますぞ」
「それは有り難い」
 彼はそれを受けて喜びの声をあげた。そして妻に顔を向けた。
「では行って来るよ」
「はい」
 彼女はそれを笑顔で送った。
「私は部屋に戻りましょう。そしてズデンカを祝福してあげましょう」
「そうしてくれるか。では私はマッテオ君を誘おう」
「私をですか」
「そうだ。婿を祝うのは舅の務めだからな」
 彼はそう言って微笑んだ。
「有り難うございます」
「では来た前。そして今宵は飲み明かそうぞ」
「はい」
 マッテオはそれに従いヴェルトナーの後に従った。そしてそのままホテルを後にした。
「では明日からはじまる幸福の為に」
 アデライーデはズデンカの手を取った。
「私達は帰りましょう。そして二人でささやかな祝福を」
「お母さん」
 ズデンカは母に従った。そして二人は自分達の部屋に帰って行った。
 残ったのはアラベラとマンドリーカだけになった。二人は一言も発さず向かい合っていた。そこにあの従者が戻って来た。
「旦那様」
 彼はマンドリーカに声をかけた。
「拳銃の用意ができましたが。あとお医者様も」
「そうか」
 マンドリーカはそれを聞いて頷いた。
「では行くか」
「はい」
 彼はホテルを出ようとする。アラベラはそれを呼び止めた。
「待って下さい」
「いえ」
 彼はそれに対して首を横に振った。
「私なぞは貴女には」
「私のお願いでも聞いて頂けませんか?」
 アラベラはそこでこう言った。
「私のお願いでも」
「それは」
 マンドリーカはその言葉に振り向いた。
「ここで暫く待っていて下さいますか」
「宜しいのですか?」
「はい」
 アラベラは微笑んで答えた。
「そしてそちらの従者の方にお願いしたいのですが」
「私にですか」
「ええ。お医者様にはお帰り頂いてそして拳銃を収めて下さい」
「わかりました」
「それから」
 アラベラはなおも話を続けた。
「何でしょうか」
「はい」
 アラベラは静かに答えた。
「お水を持って来て下さい。コップに一杯のお水を」
「それで宜しいのですか」
「はい、今の私にはそれが必要です」
「わかりました」
 彼はそれに従いその場から立ち去った。その際マンドリーカが彼に声をかけた。
「これを」
 懐から財布を取り出しそこから札を何枚か取り出した。
「お医者様に。謝罪として」
「わかりました」
 アラベラはその間に自分の部屋に戻った。マンドリーカに顔を向けることなく挨拶もなかった。
「当然だな」
 マンドリーカはそれに対してうなだれてそう呟いた。
「私の様な愚かな男には。そうされて当然なのだから」
 彼にはそれが痛い程よくわかっていた。少なくともそう自責していた。
 だからこそ階段の上にある部屋から目を離すことができなかった。そこにいる女性は自分を決して許しはしないだろうと考えていた。
「全ては終わった。私は残りの人生を後悔と自責の中で生きていかなくてはならない」
 扉は開かない。開く筈がないと思っている。
 やがて従者が戻って来た。彼はその手にコップに入った水を持っている。
「来たか」
「はい」
 従者は主に答えた。
「ではその水を上に持って行きなさい。あの人にね」
「わかりました」
 この時二人はそのコップの水が何を意味するのかわかってはいなかった。ほんの少し落ち着いて考えればわかったかも知れない。だが今の彼等はそれを考えるにはあまりにも多くのことがあり過ぎた。
 従者は階段を上がる。そして部屋の扉の前に来るとその扉をノックした。
 扉が開く。その中にいるであろう彼女は見えない。
「見えないのは私の恥ずべき行いのせいか」
 マンドリーカはそれを見てそう思った。
 従者が下がる。そしてマンドリーカの側にやって来た。
「御苦労」
「はい」
 彼は主に頭を下げた。
「今日は色々と世話をかけた。これを」
 彼はまた財布を取り出しそこから札を一枚彼に手渡した。
「それで美味しいものでも食べなさい」
「有り難うございます」
 彼は従者達に対しても決して吝嗇ではなかった。むしろ気前のいい男であった。
「では今日はこれで休んでいいよ」
「はい」
 従者は頭を下げその場を後にした。こうしてマンドリーカだけがそこに残った。
 彼は階段の前に来た。そしてそこから部屋のある上の階を見上げている。
「彼女は来ない」
 彼はまだそう思っていた。
「それはわかっている。だがここを立ち去るわけにはいかない」
 それが最低限の責任の取り方だと思っていた。少なくともこの場では。
 扉が開いた。そしてそこからアラベラが姿を現わした。その手にはあの水がある。
「あれは」
 マンドリーカはその水に目がいった。
「どうするつもりなのだ」
 その時先に彼女に話した婚礼の際の清らかな水のことを思い出した。だがそれが自分に向けられるとは思ってはいなかった。
 扉を閉め前を進む。マンドリーカはそんな彼女から目を離さない。
 そしてゆっくりと階段を降りてくる。ホテルの灯りの中に照らされながらゆっくりと降りてくる。
 遂に彼の前に降り立った。そしてそのコップの中の水を差し出した。
「どうぞ」
 彼女は微笑んでその水を差し出した。
「私にかい?」
 マンドリーカは受け取る前にそう問わざるを得なかった。
「勿論です」
 アラベラは微笑んでそう答えた。
「貴方以外に誰がいるのでしょうか」
「しかし私は」
 受け取ることが出来ない、そう言おうとした。だがアラベラはそれを許さなかった。
「女性からの申し出を断るのはどうかと思いますよ」
「ですが」
 それでも彼は躊躇った。だがアラベラはそんな彼に対して静かに語りはじめた。
「この水を受け取った時私は考えたのです。飲み干してしまおうかと」
 落ち着いた気品のある声であった。
「ですがそう考えた時貴方のことが思い浮かんだのです。それで今宵のことは全て清められたのです」
「清められたのですか」
「ええ。この水によって」
 彼女はここでその水を彼に見せた。
「この水に私は貴方の顔を見ました。それで私は決めたのです。この水に従おうと」
「そしてここまで来られたのですか」
「はい」
 彼女は答えた。
「そしてその清らかな水を私の生涯の伴侶となる貴方に差し上げようと決めたのです。娘時代の終わる最後のこの夜に」
 そして再びその水をマンドリーカに差し出した。
「わかりました」
 彼はようやくそのコップを受け取った。そしてそれを手にして彼女に対して言った。
「その続きは申し上げていませんでしたね」
「続きとは」
「ええ。まずは私がそのコップの半分を飲みます」
 彼はそこでそのコップの水を実際に半分程飲んだ。
「そして」
 次にそのコップをアラベラに差し出した。
「次には貴女が飲まれるのです」
「この清らかな水をですね」
「そうです、そしてそれが私達を清め永遠に結びつけるのです。祝福の水として」
「わかりました」
 アラベラはそれを受けてその水を手にした。そしてその水を全て飲み干した。
「これでいい」
 マンドリーカはそれを見て満足した様に微笑んだ。
「これで私達はようやく結ばれたのです」
「清められ、そして祝福されて」
「はい。神が私達を祝福して下さいました。私達は永遠に一緒です」
「この世の終わりまで」
「そう、最後の審判まで」
 アラベラはコップを足下に置いた。そして両手を差し出した。
 マンドリーカはその両手を握り締めた。力強く、それでいて温かい手であった。
「私はもう貴方以外の誰のものでもありません」
「それは私も同じこと」
「信じて下さいますね」
「はい」
 マンドリーカは頷いた。そして彼も言った。
「私を信じて下さいますね」
「はい」
 アラベラも頷いた。それで二人の絆が確認された。
「私はもう別のものになることはありません」
「それは私も」
 アラベラもマンドリーカもそれは同じであった。
「明日から二人の生活がはじまります」
「はい」
「この懐かしい都を後にして私は貴方の側へ」
「そして私はそれを受け止める。行きましょう、緑の都が私達を待っています」
「ええ。行きましょう、二人で」
「喜んで」
 二人は並んで階段を昇っていく。そしてそのまま二人の世界に向かうのであった。


アラベラ   完


             2004・12・6





うんうん、良かった、良かった。
美姫 「姉も妹も幸せになれて良かったわね」
坂田さん、投稿ありがとうございました。
美姫 「ありがとうございました」
とても面白かったです。
美姫 「それでは」
ではでは。



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