第三幕 革命裁判


 広い土間が二つに仕切られている。半分には裁判所が置かれ、もう一方には聴聞席が置かれている。そこに市民達が集まってきている。
 その後ろにはトリコロールが掲げられている。フランスの革命の旗である。それはそれぞれ大きな槍にくくり付けられている。
『市民達よ、祖国は今危機にある』
 旗にはそう書かれていた。そのことからこの裁判が尋常ではないことがわかる。
「諸君!」
 そして聴聞席では一人の男が市民達に演説を振るっていた。
「今我がフランスは絶体絶命の危機にある」
 彼は真剣な顔と声で訴えている。
「内部にはジロンドや多くの革命の敵がいる。彼等はどれだけ断頭台に送ろうとも諦めることはない。このフランスを滅亡させようという企みを」
「それは本当ですか!」
 市民達の中にはその告発に驚く者もいる。
「私は嘘は言わない」
 その男は言った。見れば茶色の髪に顎鬚を生やしている。そして礼の青い上着に赤いタイ、白いシャツのサン=キュロットである。
「同志マテュー」
 誰かが彼に尋ねた。
「何だ、愛する同志よ」
 マテューは彼に応えた。
「彼等は国内だけで留まっているのでしょうか」
「というと」
 彼はあえて言葉を誘導させた。
「もしかすると国外の敵と共謀しているのではないでしょうか」
「国外の敵」
 彼はわかっていたがあえて考える顔をしてみせた。
「それはオーストリアやプロイセンのことかね」
「はい」
 その市民は頷いた。
「つまり君は国内の反革命勢力が他の国々と共謀してこのフランスを潰そうとしているのではないか、と考えているのだね」
「そうです」
 彼は答えた。
「本当のところはどうなのでしょうか」
「その通りだ」
 マテューは答えた。
「彼等はオーストリアやプロイセンと繋がっている。かっての市民ルイ=カペーの様に」
 ブルボン朝の国王ルイ十六世のことである。彼は王権が停止されるとそう呼ばれたのである。彼は実際にオーストリアやプロイセンにフランス軍の情報を流していたと言われている。オーストリアは彼の妃マリー=アントワネットの実家である。欧州随一の名門だ。
「何と!」
 他の市民達はそれを聞いて驚きの声をあげた。マテューはさらに言った。
「聞いて欲しい諸君」
「何でしょうか」
 市民達は危機感に震えながらも彼の言葉に耳を傾けた。
「彼等に勝つには諸君達の力が必要だ」
 彼はここで顔に悲壮感を漂わせた。
「今我々には金と兵隊が必要だ。この愛すべき祖国フランスを守る金と兵士が」
「それでフランスが守れるのでしょうか」
「守れる。いや、それなくては我々は皆殺しに遭う。革命の敵によって」
「革命の敵に」
「諸君、それでいいのか!」
 彼はここで声をあらわげさせた。
「あの者達にむざむざと殺されていいのか!我々が血により手に入れた権利をもう一度あの腐り果てた貴族達に渡してよいのか!」
「嫌だ!」
 市民達はそれに対して言った。
「ではどうするべきか!」
 マテューは彼等に問うた。
「戦うべきではないのか!」
「そうだ!」
 市民達はそれに応えた。
「戦いだ!戦いだ!」
 彼等は口々に叫ぶ。
「ジロンド派を殺せ!王党派を殺せ!」
 声は何時しか血生臭いものになっていた。
「オーストリアの奴等を殺せ!プロイセンの奴等を殺せ!」
 次第にそれは外にも向いていく。マテューはそれを見て内心ほくそ笑んだ。
(これでよし)
 これこそが彼の狙いであったのだ。
 革命は敵を欲する。そしてそれは内外に向けられる。
 内の敵はジロンド派と王党派だ。彼等は見つけ次第次々にギロチンに送っていく。罪状はどうでもよかった。そこに属していること自体が罪なのだから。
 そして外の敵はオーストリアやプロイセン。特に王妃の生家であったオーストリアは格好の敵であった。
「革命は血を欲する」
 それは貴族の血だけではないのだ。他国の者、そして革命を担う民衆の血をも欲しているのだ。
 マテューはそれがわかっていた。ロベスピエールも。だから彼等は民衆を扇動する。そして彼等を血に誘うのだ。
 ここで民衆を血に誘う者達の中で最も弁の立つ者が姿を現わした。
「おお!」
 民衆は彼の姿を見て声をあげた。
「ジェラール!」
 そこにジェラールが姿を現わしたのだ。
「友よ、よく来てくれた!」
 マテューが彼に声をかける。ジェラールはそれに対し大きく手を振った。
 彼は市民達から絶大な人気があった。生真面目であり誰に対しても紳士であった。そして誠実かつ情熱的であったからだ。彼に私も野心もなかった。だからこそロベスピエールも彼を側に置いているのだ。
「ジェラール!」
 民衆は彼に熱狂的な声をかけた。
「同志達よ」
 ジェラールはそれに応え彼等に言った。大きな声だった。
 場は一気に静まり返った。ジェラールはそれを確認して言葉を続けた。
「今の我が国の置かれた状況は理解してくれていると思う。知っての通り大変な状況だ」
 それは既にマテューが言っていた。だがジェラールの言葉はそれ以上に心を打った。
「ローダンは陥落しヴァンデーでは死闘が続いている。そしてブルゴーニュからも敵が迫っている。我々を滅ぼそうと敵が迫っている」
 彼はここで民衆を見回した。
「オーストリア、プロイセン。そしてその背後にはあのイギリスがいる」
「イギリス!」
 民衆はそれを聞いて思わず絶句した。言わずと知れたフランスの宿敵である。これは王室が倒れようと変わることはない。
「彼等に対し勝利を収めるには何が必要か。それはわかってくれていると思う」
 ここでまた民衆を見回した。
「勝利を収めるには貴方達の力が必要だ。資金を、そして兵士を頼む!フランスを救ってくれ!」
「わかった!」
 民衆はそれに応え熱狂的な半ば叫び声のようなものをあげた。
「これを渡そう!愛する祖国の為に使ってくれ!」
 そう叫んでジェラールやマテューに対してその手に持つそれぞれのものを差し出した。
 首飾りに指輪、銀の留め金、金のボタン。中には銀のロザリオもあった。
「愛する祖国の為に!」
「フランスを救う為に!」
 側にあった馬車の中に次々と投げ込まれる。そしてその中は忽ちその宝で満杯になった。
 ジェラールもマテューも純粋にそれを喜んだ。彼等はそれを自分達の懐に入れるつもりはなかった。ただ祖国の為に使うつもりであった。
 こうした意味で彼等は高潔であった。ロベスピエールがそうであるように。だがこの宝で新たなギロチンが作られ、新たな敵を葬るのだ。
 それが彼等の正義であった。正義の為に使われるのならばよいのである。
 ジェラールはそれを見て顔を一瞬曇らせた。だが一瞬だったので誰も気付かなかった。
 ここで一人の老婆が姿を現わした。
「もし」
 彼女はまだ幼さの残る少年に導かれこちらにやって来る。服は粗末で腰は曲がっている。
 その動きは少年に導かれるままだ。どうやら目が見えないらしい。
「ご老人、どうかされましたか」
 ジェラールは彼女に声をかけた。
「はい」
 彼女は問われゆっくりと口を開いた。
「私の夫と息子はバスティーユとヴァルミーで死にました。そして今は墓の下にいます」
「名誉の戦死ですね」
「はい。私ももうすぐこの世を去りましょう」
 ジェラールに応えた。
「嫁も死に私の身寄りはこの孫一人となりました」
 そう言って手を引く少年に手を当てる。
「私の孫。たった一人の私の肉親」
 彼女にとってはかけがえのない存在であることがわかる。その証拠に彼を見る光のない目が温かいものであった。光がなくとも彼女は孫を見ていたのだ。
「けれどこの子を革命に捧げます。フランスを救う為に」
「そうですか」
 ジェラールはそれを聞きいたたまれない気持ちになった。だがそれを顔に出すことは許されなかった。
「では私は喜んで貴女の捧げものを受け取りましょう。彼の名は」
「ロジェーです。ロジェー=アルベルト」
「ロジェー=アルベルト」
 マテューが名簿にその名を記入する。見れば志願兵達もそこに集まっている。
「今夜出発です。そしてお孫さんはフランスの為に活躍することでしょう」
「願ってもない幸せです」
 彼女はそれを聞くと微笑んだ。
「あとは貴女の目と杖ですが」
「それは我々が」
 周りの者が出て来た。そして老婆の手を取った。
「お婆さん、行きましょう」
「あ、有り難うございます」
 彼女は謹んで礼を言った。
「貴女は革命に全てを捧げられた。今度は我々が貴女に捧げる番です」
「有り難い、私の様な何の力も無い老婆に」
「お婆さん、それは違います」
 そこでジェラールが言った。
「貴女は今まで貴族達の圧政に耐え、そして今は革命に全てを捧げられました。貴女もまた一人の闘士なのです」
「私が」
「はい。ですから誇りを持って下さい。革命の戦士、自由の戦士としての誇りを」
「誇りを」
「そうです、今まで我々が持つことすら許されていなかった誇りです。それを持ち胸を張って下さい」
「わかりました」
 彼女はそう言うと歩き出した。それまでの弱々しい足取りではなかった。
「これからは全ての者がそうして歩ける時代なのです。古き呪縛から解き放たれて」
「古き呪縛」
「そう、古い呪縛だ」
 ジェラールは市民達に対して言った。
「今やそれから解き放たれた。そしてそれを守る為に戦おう。行こう、戦士達よ。全ては勝利の先にある!」
「おお!」
 市民達は掛け声をあげた。そして口々に叫ぶ。
「フランス万歳!」
「自由と平等よ永遠なれ!」
 その声が場を支配した。そして彼等は老婆を導いてそこから去っていく。
 マテューが彼等を先導をする。そこに残ったのはジェラールだけであった。
「さてと」
 そこに兵士達がやって来て掃除する。馬車も引かれてそこから消える。やがてあの密偵がやって来た。
「同志ジェラール」
「久し振りだな」
 彼は側にやって来た密偵に対して声をかけた。
「いい情報が入りまして」
「マッダレーナのか?」
「いえ」
「では誰のだ?」
「アンドレア=シェニエの情報です。今リュクサンプールにいます」
「リュクサンプールにか」
 ジェラールはマッダレーナの名を呼ぶ時とはニュアンスが違っていた。どうもあまり愉快ではないようだ。
「彼を捕らえたらマッダレーナさんも来ると思いますよ」
「そうだろうな。二人は今惹かれ合っている」
 彼の顔がほんの僅かだが歪んだ。
「どうされますか」
「アンドレア=シェニエは切れ者だ。そう簡単に捕まるものではない」
「それはそうですが」
「ルーシェはもう逃げたのだろう、ロンドンにな。じきに彼もその後を追う。マッダレーナと共にな」
「諦められているのですか」
「そうではない」
 彼はその言葉には首を横に振った。
「ただ事実を言っているだけだ」
「そうですか」
「君はアンドレア=シェニエはよく知らなかったな」
「残念ながら」
「なら仕方ない。彼は切れ者だ。そのうえ弁も立つ。我々の側にいないのが残念でならない」
「それ程なのですか」
「だからだ。おそらく捕まりはしないだろう。そして異国で時を待つ」
「我々が倒れる日が来るのを」
「そうだ。我々の仕事はその日が来ないようにするだけだ。とりあえずは彼は放っておこう」
「わかりました」
 ジェラールはシェニエのことは諦めていた。そしてマッダレーナのことも。
(これも仕方ないことだ)
 そう思いふっきるしかなかった。
(俺には愛は似合わない。俺の様な男にはな)
 自らを蔑んだ。まるで罪を苛んでいる様に。
 彼はその場を去ろうとした。その時だった。
「大変だ、大変だ!」
 不意に子供の声がした。
「子供か!?」
「ええ。どうやら新聞売りのようです」
 密偵が言った。
「新聞!?今日のにしては時間が違うな」
「号外でしょうか」
「号外。何かあったというのか。私は聞いていないが」
 彼は顎に手を当てて顔を顰めさせた。子供達は彼の前にも来て新聞をばら撒く。
「凄いニュースだよ、あの男が逮捕されたよ!」
「あの男!?誰だ!?」
「また王族の誰かか!?」
 市民達が集まってきた。そして口々に問う。
「王族じゃないよ、詩人だよ!」
「詩人!?まさか」
 ジェラールはそれを聞いて目を見張った。
「シェニエだ、アンドレア=シェニエが捕まったよ!リュクサンプールで捕まったよ!」
「シェニエが!」
 ジェラールと密偵はそれを聞いて顔を見合わせた。
「仲間を逃がす為残って戦い遂に捕まったそうだ。仲間はイギリスに逃げたぞ!」
「彼らしいな」
 ジェラールはそれを聞いてそう思った。
「けれどこれは大きいですよ」
 ここで密偵が言った。
「そうだな」
 ジェラールはそれを聞いて言った。
「彼女が来るかも知れない。シェニエを救いに」
「ええ」
「さて、その時どうするかだ」
 ジェラールはまた顎に手を当て考え込んだ。
「どうされるおつもりですか?」
「それは君には関係ないことだ」
「失礼」
「いや、いい。だが」
 ここで釘を刺すことにした。
「今の言葉は他言は無用だ」
「わかりました」
 彼は頭を下げた。
「ですがアンドレア=シェニエは大きな獲物ですよ。我々にとっても」
「そうだな。彼は今まで一貫して我々を批判してきた。真の革命ではないと」
「あげくの果てには王政よりも酷い独裁政治だと」
 彼にとってその言葉は全く心外なものであった。
「そうだな」
 ジェラールはそれに応えた。だが応えるその顔は少し曇っている。それが何故かは密偵にはわからなかった。
「ではすぐに戻りましょう。革命クラブへ」
「そうだな」
 こうしてジェラールは密偵に促される形で革命クラブに戻った。そこに彼の執務室があるのだ。本来は別のところに置くのだが彼はそこに置いていた。その方が彼は精神的に落ち着くからだ。
「革命の理念を一時たりとも忘れたくはない。だからここに少しでもいたい」
 彼はいつもそう言っていた。そしてそれに従いここに執務室を置いたのだ。
 執務室に入る。暫くして扉をノックする音がした。
「どうぞ」
 ジェラールは入るように言った。すぐに若い党員が入って来た。見ればようやく二十歳になったばかり位の美しい青年である。
「用件は何だね」
 わかっていたがあえてそう尋ねた。
「同志ジェラール、アンドレア=シェニエへの告発状です」
 その手にある書類をジェラールに手渡した。
「先程捕まったという話が出た詩人だな」
「はい。同志ロベスピエールはすぐに彼の処断を貴方とフーキエ=タンヴィルに任されました」
「タンヴィルか」
 タンヴィルは革命裁判所の検察官である。大地主の家に生まれ最初は裁判所の検事だった。だが今では革命裁判所にいる。同じ検事といってもこの裁判所の検事は通常のそれとは違っている。
 彼は革命の敵をギロチンに送る死の宣告人であったのだ。実際に彼によって多くの者がギロチンに送られた。
 それは王党派やジロンド派だけではない。仲間である筈のジャコバン派も。彼の手により多くの者がギロチン台の露と消えているのだ。
 人々は彼をこう呼んでいた。
『死の水先案内人』
『ロベスピエールの鎌』
 と。その名は将に死そのものであった。
「同志タンヴィルは既にサインを済まされています」
「そうか」
 それは死刑のサイン以外なかった。タンヴィルの書く言葉は全て死を意味するものだからだ。
「ではあとは私がサインをするだけだな」
「はい、これでまた革命の敵が一人この世から消え去ります」
 若い党員は純粋な笑みを浮かべてそう言った。
「そうだな」
 ジェラールはそれを見て言った。
(君にはまだわからないか)
 そして心の中でそう呟いた。
「少し時間をくれないか」
 そして彼に対してそう頼んだ。
「何故でしょうか」
「演説をして帰ってきたばかりだ。休ませてくれ。サインはすぐにするから」
「わかりました」
 若い党員はそう言って頭を垂れた。そして部屋を後にした。
「ではこれで」
「うん」
 党員は去った。部屋にはジェラールだけとなった。
「サインか」
 彼はその書類に目をやった。封筒に入れてある。
 封筒を開けた。そして中を取り出した。
 そこには確かにシェニエについて書かれていた。彼の死刑に同意するかどうか。告発状とはいうがその実は死刑を承認するサインであった。それがジャコバンの告発であり裁判であった。
 告発状をさらに見る。下の方にサインがあった。
「タンヴィルの字だ。間違いない」
 そこには確かに彼のサインがあった。死刑に同意するかどうか、ロベスピエールの名で問われている。タンヴィルはそれに同意のサインを書いていた。
「やはりな」
 彼はそれを見て言った。椅子に腰を下ろしふう、と溜息をついた。
「俺がサインをすれば全てが決まる。そう、彼はすぐに断頭台行きだ」
 そして書類を手に取った。
「この書類一枚で彼の命が決まるのだ。あとは形式だけの裁判が行われそれまでの多くの者と同じ運命を歩む。いつもと変わることなく」
 いつもと変わらない、それがジャコバンのやり方であった。彼等は自分達に逆らう者は誰であれ許さないのだ。
 毎日多くの者が断頭台に送られる。タンヴィルは狂った様にその書類にサインをする。そして次にサインをする者の一人が彼でもあったのだ。
「何時やっても嫌な仕事だ」
 彼はこの仕事が回ってきた時常に心の中でそう呟いた。彼は血を好まなかったのだ。
「今日か明日には決まる。俺のサインで」
 ペンを手にする。そして呟いた。
「祖国の敵、実にいい言葉だ。誰もが納得する」
 書類にペンをつけた。
「コンスタンティノープル出身、士官学校にいた。格好の経歴だ。しかもジロンドに共感している。いつものパターンか。そのうえ」
 ペンを走らせる。
「詩人だ。言葉で扇動し人々を惑わせる。実にいい。ここまであって死刑にならない方がおかしい。今の時代ではな」
 ここでペンを止めた。そしてさらに呟いた。
「俺は何をやっているのだ。俺があの時屋敷を飛び出て理想を目指したのは何だったのだ」
 五年前のあの日が甦る。最早全てが懐かしい。
「父を連れて屋敷を飛び出した。そして革命に身を投じた。俺は新しい時代を切り開く自由と平等の戦士の筈だった。そう、俺は革命の子だったのだ」
 目の前に今までの光景が思い浮かぶ。ロベスピエールとの出会い、テニスコートの誓い、三部会。その全ての場面に彼はいた。そして理想を胸に戦っていた。
 だがその理想の行き着く先は何であったか。
「しかし俺はここでも下僕だった。革命に仕える下僕だ。そして革命の名の下に罪なき者を殺す。何故だ!何故こうなった!」
 彼は叫んでいた。
「殺しながらも俺は泣いている。罪なき者の血でこの手は濡れている。もう消えることはない血に濡れている」
 その手を見る。ペンも書類ももう目に入らない。
「理想とは何だったのだ。俺は自由と平等、そして博愛が支配する世界を望んでいた。だがそれは血に塗られた恐怖の世界だった。かっての王の時代よりも遥かに陰惨で血生臭い世界だった」
 多くの者が死んだ。彼は常にそれを見てきた。
「全ての人が幸福に暮らせる世界、それを目指していたというのに。俺が今いるのは悪夢と恐怖と絶望が支配する暗黒の世界だ。俺は理想とは全く逆の世界にいるのだ」
 彼は泣いていた。涙は流してはいない。だが心で血の涙を流していた。
「俺は間違えてしまった。だが後戻りは許されない。俺にはやらなければならないことがある」
 そして書類を見た。
「それは死の鎌を振り下ろすことだ。最後に俺の首に振り下ろされるその日までな」
 自分の運命を悟っていた。ジャコバン派は仲間であろうが容赦はしない。疑わしい者はすぐに消える運命なのだ。
 サインを終えた。その時だった。
「同志ジェラール」
 また扉をノックする音が聞こえてきた。
「どうぞ」
 彼は入るように言った。入ってきたのは先程の若い党員ではなかった。密偵だった。
「君か」
 ジェラールは彼の姿を認めてそう言った。
「どうしたんだね」
「あの方が来られています」
 密偵は恭しい態度でこう答えた。
「あの方?同志ロベスピエールか」
「いえ」
「では同志タンヴィルか。サインなら済んだと伝えてくれ」
 彼は今は一人になりたかったのだ。だが密偵はそんな彼に対して言った。
「女性の方です」
「まさか」
 ジェラールはそれを聞いて顔色を変えた。
「ええ、その通りです」
 密偵は頭を垂れてそう答えた。
「どう為されますか」
「決まっている」
 ジェラールはすぐに言った。
「お通ししてくれ。至急にだ」
「わかりました。それでは」
 密偵は再び頭を垂れると部屋から立ち去った。そしてすぐにマッダレーナを連れて戻って来た。
「お久し振りです」
 マッダレーナはジェラールに対して頭を垂れた。
「はい」
 ジェラールもだ。彼はあくまで紳士的な態度を崩さない。まずは密偵に対して声をかけた。
「席を外してくれ」
「わかりました」
 密偵は頷くとそれに従った。
 扉が閉まる。部屋には二人だけとなった。
「さて」 
 ジェラールはマッダレーナに顔を向けた。
「一体何のご用件でこちらに来られたのですか、マドモアゼル」
 わかってはいたがあえて尋ねた。
「おわかりだと思います」
 マッダレーナは強張った顔と声でそう言った。
「はて」
 ジェラールはとぼけてみせた。
「私には何のことだかわかりませんが」
「そんな」
「仰っていただかないと」
 これは策略だった。彼女を追い詰める為の。
 彼の顔は笑ってはいなかった。声もだ。ただ彼女の動きを探っていた。
(どう出るかな)
 マッダレーナはその顔を更に強張らせた。もう蒼白になっている。
「あの方を」
「あの方」
「シェニエ様です。アンドレア=シェニエ。詩人であられます」
「その者なら知っています」
 ジェラールはそこで言った。
「革命の敵として今捕らえられています」
「はい」
「このままでは明日にでも裁判にかけられるでしょう」
 それ以上は言わなかった。裁判にかけられるのがどういうことか、誰でもわかることだからだ。
「そして貴女は何故ここに。彼とのご関係は」
「その」
 彼女は問われて顔を少し俯かせた。
「言わなくてはなりませんか」
「ご自由に」
 言うのはわかっていた。あえて彼女の口から言わせたかった。
「あの人は」
 彼女は搾り出すようにして言う。
「私の愛しい人です」
「そうでしたか」
 わかっていた。だが知らないふりをした。
「ですから・・・・・・。それ以上はおわかりだと思います」
 彼女は両目をキッと見開いた。そして叫んだ。
「あの方をお助け下さい!それには貴方のお力が必要です!」
 そう言ってジェラールに懇願した。全てを捨てた顔であった。
「私のですか」
 彼はここで逡巡した。迷いが強くなったのだ。
(どうするべきか)
 彼は一瞬マッダレーナから顔を離した。
(言うべきか。いや)
 顔を少し俯かせた。
(言わざるべきか)
 迷った。だが言うことにした。
「彼を愛していますか」
「はい」
 マッダレーナは頷いた。
「助けたいですか」
「絶対に」
 強い声でそう言った。
「その為にここに来たのですから」
 真剣であった。その為には全てを捨てる覚悟であった。
 ジェラールはその目を見た。唇を噛む。それから言った。
「わかりました。しかし条件があります」
「条件とは」
 マッダレーナはジェラールを見た。
「簡単なことです」
 ジェラールは顔を歪めさせながら言った。再び彼女から顔を離す。
「貴女が私のものとなることです」
 そしてまた彼女に顔を向けて答えた。その顔はマッダレーナのそれに劣らぬ程強張っていた。
「そんな・・・・・・」
 それを聞いたマッダレーナの顔が割れそうになった。ジェラールはそんな彼女に対して言葉を続けた。
「簡単なことです。一度だけ私に全てを許されればいいのです」
 それがどれだけ卑劣なことか、ジェラールはわかっていた。唾棄すべきことであった。だが彼はそれでもそれを言わざるを得なかったのだ。
「貴女は気付いておられませんか、私の想いを」
「貴方の」
「そうです。私がどれだけ貴女を想っていたか」
 ジェラールはそれまでひた隠しにしていた己の本心を遂に告白した。
「あの忌まわしい屋敷で使われていた時から貴女のことを見ていました。夕方にメヌエットのステップを学んでおられた時」
 彼は思いつめた顔で話を続けた。
「それだけではない。花園の中にいた時も。詩を読まれていた時も。私は常に貴女だけを見ていました」
 それは真実であった。彼は彼女だけを見ていたのだ。
「それは適うことがないと諦めていました。忌まわしい身分という鎖があった。だがそれは断ち切られた。それから貴女を探し続けた。そして今ここにおられる」
 彼はここで彼女に強い視線を浴びせた。
「この日が来ることをどれだけ待ち望んだか。今どうしてこの機会を逃すことができようか」
 彼女を問い詰める様にして言葉を出す。
「今ここで言いたい。何と思われようが、言われようがかまわない。貴女を私のものとしたい!」
 最後には叫んでいた。最早隠すことはできなかった。
「・・・・・・・・・」
 マッダレーナはそれを聞き沈黙していた。だがゆっくりとその口を開いた。
「わかりました」
「な・・・・・・」
 彼は断られるだろうと考えていた。断ってほしかった。それで諦めがつくからだ。
「それであの方が助かるのなら」
 彼女は今にも壊れそうな顔でそう言った。小さいが強い声で。
「私は喜んで貴方のものになりましょう」
「・・・・・・・・・」
 今度はジェラールが沈黙した。彼女の心を知り何も言うことができなくなったのだ。
「私の様なものの犠牲であの方が救われるなら」
 彼女はここで顔を上げた。
「私は喜んで犠牲になりましょう!」
 そして今までとはうって変わって激しい声でそう宣言した。
 やはりジェラールは何も言うことが出来なかった。マッダレーナは言葉を続けた。
「革命が起こった時のことです」
 彼女は言った。
「人々は私の屋敷にも雪崩れ込んで来ました。そして家の者を次々と殺していきました」
「そうでしょうね」
 否定することはできなかった。革命を全て見てきたからだ。
「父は玄関のところで殺されました。私と母を守る為に。そして」
 マッダレーナは一瞬唇を噛んだ。だが苦しい心を抑えてまた言った。
「母は私の部屋の戸口で死にました。私を逃がす為に楯となって」
「あの人が。そうだったのか」
 ジェラールは今までマッダレーナの両親を憎みこそすれ認めることはなかった。人間とすら思っていなかった。それは何故か。貴族だからである。だが今の話を聞いてそれが変わった。
(あの人達も人間だったのだ)
 それがわかるとは思わなかった。何故それがわからなかったのか。
「私はベルシと共に逃げました。暗い夜道をただひたすら進みました。そして後ろから青白い鈍い閃光が起こりました」
「雷ですか」
「いえ」
 彼女はそれに対し首を横に振った。
「私の家が、屋敷が焼け落ちていたのです。今まで住んでいた美しい我が家が」
「あの家がですか」
「はい」
 ジェラールはそれを聞いて感慨を感じずにはおられなかった。ただひたすら憎い筈の屋敷だったのに。
「私は一人になりました。けれどそれをベルシが救ってくれたのです」
「彼女が」
「はい。私の為に身を売って。そうして私を救ってくれたのです」
「そうだったのですか」
 革命は多くの人の運命を狂わせる。望んでもいない道に追いやってしまう。美名の陰にはそうした残酷な牙が潜んでいるのだ。
「誰もが私の為に不幸になってしまった。私は誰も幸福にすることができなかった」
 それは違う、ジェラールはそう言いたかったがとても言えなかった。
「けれどそんな私が愛を知りました。そして私を愛してくれるという方が現われたのです」
「それが彼なのですか」
「はい」
 マッダレーナは頷いた。
「あの方の為なら私は喜んで犠牲になりましょう。例えどの様なことであっても」
「そうですか」
 ジェラールは最早彼女に指一本も触れる気にはなれなかった。彼の正義を愛する心と誇りがそれを許さなかったのだ。
「マドモアゼル」
 ジェラールは彼女に顔を向けた。
「貴女の心はしかと受け取りました。私は貴女に手を触れることはありません」
「え・・・・・・」
「そして今誓いましょう。貴女が想う人を、アンドレア=シェニエを必ず救い出して差し上げましょう」
「本当ですか!?」
 マッダレーナは我が耳を疑った。つい先程自分を求めていた者の言葉とは思えなかった。
「私は嘘は言いません、この誇りにかけて」
 彼は他の者にも誇りを忘れるな、と言う。誇りなくして人間ではない、と。だからこそ自らもそれに誓うことができるのだ。
「できるのですか」
「出来なければ私が断頭台に行きましょう」
 本心からの言葉だった。命は最初から惜しくはなかった。それよりも誇りを失う方を恐れていた。
「ここに私のサインがあります」
 そして告発状を手に取りそれをマッダレーナに見せた。
「しかし今それを消しましょう」
 そう言うと自分の名に線を引いた。
「これが証拠です。私は今からアンドレア=シェニエを救うことに全てを捧げます」
「わかりました」
 マッダレーナもそれを見て頷いた。ジェラールの心をようやく全て知ったのだ。
「その御心喜んで受けさせて頂きます」
「かたじけない」
 ジェラールは頭を垂れた。
「では外に行きましょう、革命裁判所へ」
「はい」
 先にジェラールが演説をした場所である。裁判もそこで行われるのだ。
 二人はクラブを出た。そして裁判所に向かって進む。
「御覧なさい、あれを」
 ジェラールはここで側を通る憲兵達を指差した。
「あの銃やサーベルを。彼等もまた裁判所に向かっているのです」
「彼等も」
「そうです。そしてそこに彼もいます」
「お願いです、あの人を」
 マッダレーナは彼等の銃やサーベルを見て不安を覚えた。そしてジェラールに頼んだ。
「わかっています」
 ジェラールはそれに対して頷いた。
「誓ったことは必ず守ります」
 彼は言った。
「革命は自分達の子供を喰らい尽くす。誰が言った言葉か」
 裁判所に来た。既に何人かの『革命の敵』がそこにいた。
「彼等もまた死んでいく。同じ人間だというのに」
 彼は今は苦渋と共にその言葉を呟いていた。かっては革命の理念だと思っていたが。
「さあ、いい席を取ったよ!」
「おい、そこは俺の席だよ!」
 見れば市民達が席を争っている。この血生臭い裁判も彼等にとっては娯楽なのだ。
「こうしたことも終わらせたかったのだが」
 ジェラールは悲しげな顔で俯いた。
 かっての王政下では死刑の執行は一大イベントであった。人々はそれを見る為に集まった。そして出店で物を買い酒や菓子に興じながらそれを見て喝采を叫んでいたのだ。
 ジェラールにとってそれもまた旧時代の忌まわしい悪習であった。彼はそれを何としてもなくしたかった。だが革命はそれを許さなかった。
「革命の敵はその悪事と死をより多くの者に晒すべきだ」
 こうした考えがあった。そしてそれは実行された。ジャコバンの下では特にそうだった。
「何も変わってはいない。いや」
 彼は俯いたまま言葉を続けた。
「さらに酷い。偽善の仮面がこれ程醜悪なものだったとは」
 革命の名の下に多くの血が流れている。だがそれ等は全て革命の下に許される。どれだけの血が流れようとも。
 その血は王政の頃とは比較にならない。トリコロールの色は決して自由と平等、そして博愛を表しているわけではないのだ。少なくとも現実は。
「同志達よ、少し落ち着いてくれ!」
 見ればマテューがいる。そして市民達を宥めている。
「じゃあ早くはじめてくれ!」
「そうだ、早く見たいんだよ、革命の敵を!」
「今日は大物が来るそうじゃないか!」
 シェニエのことであるのは言うまでもない。彼は今日このパリに着いたばかりである。そしてすぐに裁判にかけられるのだ。
 物売り達の声もする。席はすぐに満席となった。
 やがて陪審員達が来た。だが彼等はあくまで飾りである。見れば皆サン=キュロットを着ている。しかも顎鬚を生やしている。
 そして裁判官達が来た。判決も既に決まっている。結局市民達は死刑の判決が見たいのだ。彼等のことはどうでもよかったのだ。
 その証拠と言うべき金髪碧眼の長身の男が颯爽と入って来た。検事であるフーキエ=タンヴィルだ。やはり彼もサン=キュロットだ。青に白に赤。それが一際映えて見える。
「タンヴィル!」
 市民達が彼に歓声を送る。
「今日も頼むぞ!」
「あんたのその見事な告発は何時見ても胸がスッとするよ!」
「今日も革命の敵をギロチンに送ってくれ!」
 そうなのだ。この裁判の主役はあくまで検事であるこのタンヴィルなのだ。他の者は脇役に過ぎない。それが革命裁判の実態であった。
「あの男を御覧なさい」
 今日は弁護人になっているジェラールはタンヴィルを指差してマッダレーナに言った。
「彼の言葉で全てが決まるのです」
 マッダレーナはその言葉を聞いて顔を青くさせた。
「しかし私も貴女と誇りに誓いました」
 強い声で言う。
「必ずやあの人を救ってさしあげます」
「お願いします」
 マッダレーナはそう言うしかなかった。喉をゴクリ、と鳴らした。
 次々と『革命の敵』達がタンヴィルにより一方的に死を言い渡される。
 かっての宮廷財務官、僧院長、王族。彼等は死刑の判決を聞くとうなだれてその場から消え去る。
「殺せ!殺せ!」
「革命に逆らう奴は皆ギロチン送りだ!」
 市民達の声が響く。それはまるで冥界の太鼓の様であった。
 遂にシェニエの番となった。彼は昂然と裁判所に入って来た。
「いよいよか」
 ジェラールは彼の姿を認めて呟いた。マッダレーナの顔が固まった。
 シェニエは憲兵達の立ち並ぶ中を進んで行く。兵士達の険しい顔に臆することなく胸を張っている。
 そして被告人の場所に来た。裁判官達と対峙する。
「アンドレア=シェニエ」
 タンヴィルが彼の名を呼ぶ。
「詩人」
「はい」
 シェニエはその言葉に頷いた。
「革命に反することを書き、我々を誹謗中傷した」
 タンヴィルは告発を開始した。
「ジロンドの者達とも親交があった。間違いはないな」
「ジロンド派とは確かに親交があった」
 シェニエはそれを認めた。
「だがそれが悪いとは思っていない」
「何!?」
 タンヴィルはそれを聞き眉を顰めさせた。
「私はそれが正しいと今でも確信している」
「それは間違いだ」
 タンヴィルはそれに対して反論した。
「ジロンド派は革命の敵だ」
「違う」
 シェニエはそれに対して反論した。
「彼等は彼等の正義の下に行動しているだけだ」
「ジロンド派は正義なぞ信じてはいない」
 タンヴィルは剣呑な声で言った。
「彼等がやろうとしているのは革命を潰すことだ。そして君が行っていることもそれだ」
「それは違う」
 シェニエは怯むところがなかった。
「私も彼等も革命に剣を向けてはいない」
「いや、向けている」
 これはタンヴィル達だけでなく裁判官達も言った。
「君のそのペンと口が我々への剣だ。君は剣を持った革命の敵だ」
「ペンと口がですか」
 シェニエはうっすらと笑った。
「確かに。私はそれを武器にする一人の兵士です」
「兵士などではない」
 タンヴィルはそこに突っ込んだ。
「君は刺客だ」
「お聞きなさい」
 だがシェニエはそこでタンヴィルを見据えた。あえて睨まなかった。
「貴方に理性があるのなら」
「うっ・・・・・・」
 さしものタンヴィルもその告発を止めざるを得なかった。彼は甚だ不本意ながら黙ることにした。
「あのタンヴィルが黙ったぞ」
「あの詩人、只者ではない」
 市民達はそれを見て囁き合った。マッダレーナはまだ顔を青くさせている。一言も話すことはできない。
 ジェラールは腕を組み沈黙を守っている。しかしその目はシェニエから離れない。
「私は兵士です。銃と剣ではなくペンと口で戦う兵士です。この二つの武器は世の邪悪なることに向けられます」
 彼は言葉を続けた。
「私は祖国のことを歌いました。愛するこのフランスのことを。そしてその崇高なる理念を」
「理念か」
 ジェラールはそれを聞いて呟いた。
「そして革命のことも歌いました。そしてそれに全てを捧げました」
 そこで裁判官達とタンヴィルを見据えた。
「それによって死ぬのなら私は本望です。私は喜んで断頭台に向かいましょう。私はその理念に従い、名誉を守ったまま死ぬことができるのですから」
 裁判官達は沈黙した。何も言うことが出来なかった。
「さあ、是非私を断頭台に送って下さい。私は死なぞ恐れはしない。そして誇りをもって死への道を歩みましょう!」
 高らかにそう宣言した。誰もそれに口を挟むことは出来なかった。
「言いたいことはそれだけか」
 だがタンヴィルが口を開いた。
「では裁判を続けよう。弁護人」
「はい」
 ジェラールが席を立った。
「貴方の意見を聞きたい」
 タンヴィルはジェラールを見た。彼等は同志である。だから安心していた。
 だがそれはすぐに崩れた。
「検事殿、そして裁判官、陪審員の方々に申し上げます」
「はい」
 タンヴィルが頷いた。全ては彼が支配していた。
「彼は無罪であります」
「な・・・・・・」
 タンヴィルはそれを聞いて絶句した。市民達もざわめきだった。
「彼は革命に反することは何一つとして行なっておりません」
「馬鹿な!」
 タンヴィルは最後まで聞くことができなかった。机を叩き激昂した。
「同志ジェラールよ、何を言われるか!この男が革命の敵でなくて何というのか!」
 普段の冷徹さは何処にもなかった。市民も陪審員達もそれを見て驚いていた。
「おい、あれが本当にタンヴィルか!?」
「あの様に興奮する彼ははじめて見た」
 彼等も狼狽していた。タンヴィルはそれに構わず続ける。
「同志ロベスピエールからの告発状があるではないか!」
「確かに」
 ジェラールはそれは認めた。
「私はそれにサインはしていない。それは何故か」
 ジェラールは言葉を続けた。
「私は彼が革命に反しているとは思わないからだ」
「戯れ言を」
 タンヴィルは顔を真っ赤にしていた。そして血走った眼で彼を睨んでいた。
「貴方は何を言っているのか自分でわかっているのか」
「当然だ」
 激昂するタンヴィルに対してジェラールはあくまで冷静であった。
「私は狂ってもいないし酔っているわけでもない。だから言おう」
 タンヴィルを見据えた。
「私は公正な視点に立って言う。アンドレア=シェニエは無実でろうと!」
「そんな筈がない!」
 タンヴィルは叫んだ。
「彼は革命の敵なのだ!革命の敵は一人残らず断頭台に送るべきだ!」
「そしてそれにより多くの者が死んだ」
「当然だ、革命に敵対するのだからな」
「その結果我々は何を得たか」
 ジェラールはここでタンヴィルだけでなく辺りを見回した。裁判官や陪審員、そして市民達も見た。
「同志諸君、よく聞いて欲しい」
 そして再び口を開いた。
「今我がフランスは危機に瀕している」
「革命の危機だ」
「違う」
 タンヴィルの言葉に首を横に振った。
「それは我々の血だ。我々は敵と戦うよりまず先に身内で殺し合っている。同じフランスを愛する者達を」
「ジェラールは何が言いたいんだ」
 市民達はそれを聞き大いに戸惑っていた。
「私の言うことは必ずわかってもらえると信じている」
 彼は言った。
「今はわかってもらえなくともいずれは必ず」
「そんな事は有り得ない!」
 タンヴィルはなおも言った。ジェラールは彼に顔を向けた。
「いや、有り得る。違うな、必ずある」
「クッ」
 彼は歯噛みした。そしてまた沈黙した。
「今彼を断頭台に送ると我々は必ずやそのことで後悔する日が来るだろう。我がフランスの栄光を守る為にも私は断固として彼の命を救うことを望む!」
「裁判官!」
 たまりかねたタンヴィルが叫んだ。
「彼のこれ以上の発言を禁じて下さい!彼は明らかに錯乱しています!」
「わかりました」
 裁判官達は頷いた。そしてジェラールに対して言った。
「弁護人、それ以上の発言を禁止します」
「・・・・・・わかりました」
 不本意ながらそれに従った。彼も決まりを破りたくはない。
「では判決に移ります」
 裁判官の一人が言った。そして陪審員達に顔を向けた。
「お願いします」
「わかりました」
 彼等は答えた。そして彼等は口々に言った。
「有罪」
 と。元々決まっていたことだ。
 全員有罪であった。そもそもこの陪審員も皆ジャコバン党員である。服や外見だけでそれが容易にわかる。
「では判決を下す」 
 裁判官の中央の者が木槌を叩きながら言う。そして判決文を読み上げる。
「詩人アンドレア=シェニエを革命に反する罪で死刑とする」
 誰も驚かなかった。皆それが当然だと思っていた。
 シェニエもである。彼は昂然と胸を張ってそれを聞いていた。
 タンヴィルは誇らしげにその判決文を聞いた。彼のいつもの動作である。
 だが市民達は沈黙していた。誰も一言も発しなかった。
「いつもはあれだけ騒がしいのに」
 陪審員達もそれを見て不思議に思った。
「これは一体どういうことだ」
 彼等もその異変に気付いていた。何かが違った。
「マドモアゼル」 
 ジェラールは傍らにいるマッダレーナに顔を向けた。 
 彼女の顔は蒼白となっていた。だが泣いてもなく、取り乱してもいなかった。
 あくまで毅然として立っていた。表情は険しかったが自らの沸き起こる感情に必死に耐えていた。
 ジェラールはそれを見て安心した。見ればシェニエは今彼の前に来ていた。
「有り難う」 
 そして右手を差し出してきた。
「礼には及ばない。私は彼女に頼まれただけだ」
 彼はシェニエの手を固く握りながらマッダレーナに顔を向けた。
「彼女?」
 シェニエはそれにつられるように顔をそちらに向けた。
「あ・・・・・・」
 そこに彼女がいた。マッダレーナはシェニエに対して頷いて応えた。
「私は彼女に導かれたのだ。正しい道に」
「そうだったのか」
「私に礼は言わなくていい。言うのなら彼女にしてくれ」
「マッダレーナ」
 シェニエはそれを受けてマッダレーナに語りかけた。
「はい」
 マッダレーナもそれに応えた。
「有り難う。今は多くは言えない。けれど有り難う」
「はい」 
 この時彼女の心にある決意が宿った。
「ジェラール、やはり君に感謝する。君がいなくては彼女に今こうして会うことはできなかった」
「そうか」
 ジェラールはその言葉を謹んで受けた。
「この恩は一生忘れない。例え私が死のうとも」
 シェニエは神を信じている。だからこそ言える言葉であった。
「アンドレア=シェニエ」
 そこに兵士達が来た。彼に退場するよう促す。
「わかっている」
 彼は頷いた。そして兵士達に従った。
「ジェラール、マッダレーナ、最後にまた会うだろう。だが忘れないでくれ」
 彼の顔は紅潮していた。死なぞ全く恐れてはいなかった。
「私は貴方達と出会えたことを幸運に思う。貴方達は私の一生の最後の幸運だった」
 そして彼は裁判の場を後にした。昂然と胸を張ってその場から立ち去った。それは勝利者の行進であった。



あわわわ。このまま死刑になってしまうのか!?
美姫 「一体、どうなってしまうの?」
う〜ん、ドキドキの状態のまま、次回を待つしかない!
美姫 「次回が待ち遠しいわ」
どうなるのかな? 次回も楽しみにしてます。
美姫 「次回を待ってます〜」
ではでは。



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