第二幕 パリ


 あの宴から五年が過ぎた。革命が起こりフランスは大きく変わっていた。
 第三身分が大きく力を伸ばしその束縛を断ち切った。そして貴族は没落し全てを、そう命さえも失った。幸運な者は物乞いや娼婦に身を落とすか海外に亡命した。
 パリの貴族達は次々とフランスを、いやこの世を去った。断頭台が連日に渡って落ち血を吸っていた。
 革命を叫ぶ者達が議会を支配し穏健派をも弾圧していた。国王も王妃も処刑され今度は同じ思想を共有する者達をも断頭台に登らせていた。
「殺せ!殺せ!」
 人々の声が木霊する。そして冷たい刃が落ちる。そして人々は革命の名の下に『革命の敵』の首に罵声を浴びせる。
「これ程までに酷い世界になるとはな」
 シェニエはパリにいた。外交官の職はなくなっている。今は詩人として生活の糧を得ている。
 彼は処刑場にいた。今日もまた断頭台が落ちた。
 処刑されたのは貴族達だけではなかった。今政権を握るジャコバン派に範反対するジロンド派も処刑されている。彼等もまた共和主義者だというのに。
「ジロンド派を弾圧するだけでも異様だというのに」
 今彼の目の前で一人の男が断頭台に登った。
「裏切り者を殺せ!」
 人々は彼の姿を認めて言った。
「これが革命か!」
 断頭台に登ったその男は叫んだ。
「彼は・・・・・・」
 シェニエはその男の姿を見て気付いた。彼もまたジャコバン党員であったのだ。
 ジャコバン派。ロベスピエールに率いられた急進的な共和主義者達であり神を否定しその代わりに理性を崇拝する者達である。そう、理性をである。
「これが理性というものか」
 シェニエは断頭台とそこに群がる人々、そして今断頭台にかけられようとしているジャコバン党員を見て呟いた。
「ロベスピエール!」
 その男は両手を兵士達に後ろから掴まれながら叫んだ。
「貴様は悪魔だ!冷酷な死神だ!」
「五月蝿い!さっさと死ね!」
「そうだ、貴様はフランスの敵だ!」
 人々がさらに罵声を浴びせる。そして彼はその中で断頭台に入れられた。
「ふん、こうなっては仕方がない!」
 彼は断頭台になけられながらもまだ叫んでいた。
「だがな」
 そして叫ぶのを続けた。
「今ここで俺を嘲笑っている連中もいずれ俺の後を追う。皆革命の名の下に死ぬこととなるのだ!」
 それが彼の最後の言葉であった。彼の首にその巨大な刃が落ちた。
 血が流れた。首筋からほとぼしり出た。
「かなり激昂していたからな」
 シェニエはそれを見て呟いた。普通首を切られた場合首からはあまり血は流れない。死への恐怖の為顔から上に血が回らないからだ。
 だがこの男は違った。それが死を前にして彼がそれだけ怒り狂っていたかを示すことになった。
「またジャコバン党員が一人死んだか」
 シェニエはその党員の首を見て言った。
「これで一体何人目なのか」
 もう覚えてもいなかった。ある者は今の男のように怒り狂い、またある者は何も語らず死んでいった。
「今度は誰か」
 彼はふと思った。
「ダントンかカミュか。それとも」
 言葉を続けた。
「ロベスピエール自身か」
 それを聞いた周りの者が彼を不審な目で睨んだ。
 だが彼はそれには意を介さなかった。そして踵を返して処刑場を後にした。
「死ね、アバズレ!」
 今度は女性を罵る声がする。
「今まで散々俺達から搾り取りやがって。今度は御前の命を搾り取ってやる!」
「そうだ、とっとと死にやがれ!」
 今度は貴族の婦人らしい。だがシェニエはそれを見るつもりはなかった。そのまま刑場を後にした。
「今まで彼女達を蝶だの花だの賛辞を送っていたというのに」
 だが彼は歩きながら呟いた。
「今では罵声を浴びせるか。それが理性というものなのだろうか」
 哀しい声であった。だがそれを聞いた者はいなかった。

 これが今のフランスであった。外では他の国々と飽くことなき戦いを続け内ではこうして血の粛清が行なわれる。最早この国で血が止まることはなかった。
「号外、号外だよお!」
 新聞売りが盛んに人々に叫びたてる。
「また革命軍が勝ったぞお!」
 シェニエはふとその新聞を買った。見ればフランス軍はその圧倒的な兵力を以ってオーストリアやプロイセンの軍をまたしても打ち破ったという。
「また勝ったか」
 フランス軍は連戦連勝であった。これは徴兵制により他の国々に増して兵力を集められるからであった。フランス軍はその圧倒的な兵力で以って戦いを有利に進めていたのだ。
「だがこれにより多くの者が死んだ」
 フランス軍の戦い方は犠牲を恐れなかった。兵士はすぐに多量に手に入る為幾らでも使い捨てにすることが出来た。実際にそうしなければ勝てないところもあった。
「それにより革命は守られる、か。多くの血が流れて」
 バスチーユが襲撃されてから多くの出来事があった。だがその殆どが流血の惨事であった。
 バスチーユもそうであった。興奮した群集がバスチーユに雪崩れ込み監獄長を虐殺したのが真相であった。シェニエはジャコバン派の宣伝を嘘だと知っていた。
 国王も王妃も処刑された。どれも裁く法がないのに、である。
「王妃へのあれはどういうことだ」
 シェニエの顔は歪んだものになった。忌まわしい、汚らわしいものを見た時の顔に。
 王妃マリー=アントワネットはオーストリア出身である。その母は偉大なるオーストリア中興の祖マリア=テレジアである。父は神聖ローマ帝国皇帝フランツ=シュテファン=ロートリンゲンであった。彼女はその両親の愛を受けて育った。
 思いの他要領がよく子供の頃はあまり勉強をしなかった。その為学問には疎かったが頭の回転は早い女性であった。
しかしそれは夫を助けるものではなかった。
「確かに彼等は浪費しただろう」
 連日連夜の舞踏会、それを彩る宝石や衣装。どれもがみらびやかなものであった。
「だが彼等は果たして断頭台に登るようなことをしただろうか」
 彼はここでもジャコバン派の言うことを信じてはいなかった。
 王妃の裁判の際彼等は王妃に冤罪を被せた。それも王妃が自らの子に淫らなことを教えたという破廉恥極まる冤罪をだ。それを聞いたシェニエは人知れず憤慨した。
「許されることと許されざるものがあるとすれば」
 彼はまた呟いた。
「そうした破廉恥漢達だ。国王や王妃ではない」
 彼の耳にあの言葉が甦ってきた。
「フランスの民達よ、私は罪なくして死んでいく!」
 国王の最後の言葉であった。そして彼は死んだ。
「罪はあっただろう。しかし」
 彼はふと顔を上げた。その先には議会がある。
「死に至る罪ではなかった。死に至る罪を負うべき者達は」
 その目の光が強くなった。
「言うまでもない」
 そして彼はテュイルリーの公園の方へ向かった。

「おい、掃除はちゃんとしとけよ」
 ペロネ橋である。セーヌ川の上にかかるパリ市民の貴重な場所である。
 ここには今一つの胸像があった。革命の英雄マラーの像だ。
 人々はその像を敬っていた。そして汚れはないか気にしていたのである。
 そこを様々な人々が行き交う。キザな伊達男や学者と見受けられる男が。その中の一人が新聞を読みながら得意になっている。
「ほれみろ、また勝ったぞ」
 見ればフランス軍勝利の記事である。
「我が革命軍は無敵だ。こうして頭の固い貴族達を皆殺しにしてやるのさ」
 彼は得意気になって周りを見回した。
 見れば道の端には物乞いや娼婦達がいる。彼はそちらの方へ歩いて行った。
「あんた達も嬉しいだろう」
 彼等を侮蔑しきった顔で侮蔑しきった声をかけた。
 彼等はかっての貴族達である。没落し断頭台は避けられたものの生きる術を知らず今はこうして生きているのである。
「いずれ御前達も断頭台行きだ。それまで精々その落ちぶれた生活を楽しんでおくんだな」
 それを聞いて周りの者もせせら笑う。
「どうせなら今ここで成敗してやってもいいんだぜ。そっちの方が楽かもな」
 かっては貴族だった物乞い達は身体を屈める。その言葉と嘲笑に何も言えずただうずくまるだけである。
「そうやって惨めに生き恥を曝してな」
 彼はそう言うと手に持つ新聞を彼等に投げ付けた。
「そのうち生きていた頃が懐かしくなるからな。断頭台の上でな」
 そう言うとまた下品な笑い声をたてた。そして彼はその場を立った。
「何て奴なの。ああした男が大手を振って歩いているなんて」
 そこにやって来た娼婦の一人が悔しさに唇を噛みながら言った。見ればベルシである。
「かっては私達に賛辞を送っていた口で今は嘲笑する。人間なんてそうしたものなのね。本当に嫌になるわ」
 彼女もまた革命後生きる糧をこうして稼いでいるのであった。
「けれどいいわ。少なくとも私はあそこにいる人達のようなことはしない」
 そう言うと上を見上げた。そこには一つの宮殿があった。
 五百宮殿。今は議会が置かれているところである。表向きには革命と平等、そして自由の為の公平な話し合いが行なわれている場所である。
 しかし実際は違っていた。そこでは血生臭い権力闘争が行なわれ敗者は断頭台へ送られた。貴族達の処刑が決められ流血の匂いが充満していたのである。
「私は少なくとも人々の血を見て喜ぶようなことはしなかった。今でも」
 彼女はそう言うとかっての仲間達に顔を向けた。
「行きましょう、皆。こんなところにいても何にもならないわ。貴方達だって嘲笑を受けたくはないでしょう?」
「・・・・・・ああ」
「・・・・・・ええ」
 彼等はそれを聞いて立ち上がった。
「私今あるお金持ちの愛人になっているの。それでお金を稼いでいるわ」
 娼婦からそうした者に囲われるのはよくある話である。かってはローマ法皇もそうしていた。
「そのお金で少しばかりの宴を開きましょう。皆でお金を出し合って」
「そうだな」
 彼等はその言葉に頷いた。
「あの人達はあの宮殿で、戦場で血を楽しんでいるわ。けれどね」
 ベルシは宮殿を見たあと仲間達に顔を戻した。
「私達は葡萄のお酒で楽しみましょう。赤いあのお酒で」
「そうだな、今日は久々に宴を楽しもう」
「ダンスをしながら」
 彼等は次第に元気を取り戻していた。
「そうと決まれば話は早いわ。じゃあこんなところから早く立ち去りましょう」
「ああ」
 こうして彼等はその場をあとにした。
 彼等は幸いであった。その後ろを一台の運搬車が進んでいた。
「殺せ!殺せ!」
 その車に罵声が浴びせられている。だが彼等はそれを聞くことはなかった。既に橋のあたりから姿を消していた。
「正義の裁きを受けろ!とっとと死んじまえ!」
 また処刑される貴族達であった。彼等は黙って民衆の罵声を受けていた。
 中にはジロンド派やジャコバン派もいる。彼等もまた宮殿の血生臭い戦いに敗れた者達であった。
「君達もいずれわかる」
 その中の一人がポツリと呟いた。
「だがその時には」
 誰にも聞こえない声だった。だが彼は言わずにはおれなかった。
「君達はこの世には生きてはいないだろう」
 そう言うと口を開くのを止めた。車は馬に引かれその場を去っていく。
「また断頭台がその喉を潤すのか」
 それを見ていた一人の男が呟いた。
「あれだけの血を飲み干しているというのに」
 彼はベンチに座っていた。そしてそれを見ていた。
 そこへ誰かがやって来た。
「濃い茶色の服とコートを着て黒のズボンを着た銀色の髪の男か」
 何やらこそこそとした様子である。
「あいつか」
 彼はベンチに座るその男を認めると懐から何かを取り出した。見れば人相書きである。
「間違いないな、あいつだ」
 彼はそう呟くと物陰へ隠れた。
「アンドレア=シェニエ。要注意人物だな」
 そして物陰に隠れながら辺りを見回した。
「見たところベルシはここにはいないか。少し遅かったかもな」
 残念がったがそれはほんの一瞬であった。彼はシェニエに視線を戻した。
「見ていろ、絶対に尻尾を掴んでやる」
 彼は密偵であった。ジャコバン派はこうした者達をパリに放って革命の敵とみなし得る者達を監視し探し出していたのだ。
これが平等と自由を謳った革命の実態であった。
 シェニエは彼に気付いているのかいないのか。ただベンチに座っているだけであった。誰かを待っているのであろうか。密偵がそう思った時であった。
「む!?」
 誰かがシェニエに近付いてきた。
「あれは」
 見れば若い男である。品のいい顔立ちをした長身の持ち主である。地味なコートに身を包んでいる。
「シェニエ」 
 彼はシェニエを認めるとその側へ来た。
「やあ」
 彼はそれを聞くと顔を上げた。
「ルーシェ、久し振りだね」
「挨拶はいいよ」
 だが彼はそれに対し首を横に振った。
「今はそんな時じゃない」
 ルーシェはそう言うとシェニエに顔を戻した。
「今の君の立場を考えるとね」
 彼はシェニエの友人だった。今はこの街に密かに潜伏していたのだ。
「あれはルーシェか?また大物が来たな」
 密偵はルーシェの姿を認めて呟いた。彼もまたジャコバン派に目をつけられていたのだ。
「君を探していたんだ」
「また大袈裟だね」
 ルーシェは傍目にもわかる程焦っていた。だがシェニエはそれに反して冷静であった。
「何を言っているんだ、僕は君を助けに来たんだ」
「私をかい?」
「そうだ、これを持って来た」
 彼はそう言うと懐から何かを取り出した。それは一枚の紙であった。
「これを君にあげるよ」
「これは・・・・・・」
 シェニエはその紙を手にとって見た。
「通行証か」
「そうだ、ロンドンまでのね。これを持ってすぐにパリを発つんだ」
 当時ロンドンは亡命貴族達の避難場所であった。
「偽名を使ってか」
 彼は通行証を見ながら言った。そこに彼の名はなく別の名が書いてあった。
「そうだ、わざわざ君の為に用意しておいたんだ。これならあの執念深いロベスピエールとその取り巻きに見つかることもないだろう」
 ロベスピエールは特に執念深いわけではなあkった。ただあまりにもその頭脳が鋭利に過ぎたのだ。
「逃げろ、というんだね」
「そうだ、当然だろう。君は自分の置かれている立場がわかるだろう!?」
「勿論だ。しかし」
「しかし!?」
「悪いがこれは君が使ってくれ。私はこのフランスに、そしてパリに残る」
「な・・・・・・」
 ルーシェも流石にその言葉には絶句した。
「シェニエ、君は気でも違ったのか!?」
「何を言っているんだ、私は正気だよ」
 彼は澄ました声で答えた。
「正気の者がそんなことを言うものか、君もどれだけの人々が革命の敵という訳の分からない理由で断頭台へ送られてきたのか知っているだろう!」
「当然だ。しかし」
「しかし、何だ!?」
「私はあるものを信じているんだ」
「神か!?」
 彼はシェニエの信仰心を知っていた。
「うん。神は全ての者にそれぞれ運命を授けて下されている」
「予定説か。カルヴァンだな」
「ああ。私はカトリックだけれどこの予定説には多いに共鳴しているんだ」
「少し変わっていると思うがね」
「それはいいさ。信仰は一つじゃない」
 それが彼の信念であった。
「神秘的な力で人々はその運命に導かれている。時には導き、時には迷わせるが。そしてその運命は言うんだ。ある者には軍人になれ、ある者には詩人になれ、と」
「そして君は詩人になった」
 ルーシェはそれを聞いて言った。
「そうだ。そして私は今その運命に従いこのパリに留まっている」
「その運命とは何だい!?」
「ここに私が求めているものがあるんだ」
「しかしだ」
 ルーシェはそんな彼に言葉を浴びせた。
「その求めているものが来なかったら君はどうするつもりなんだい!?」
「その時は決まっているさ」
 シェニエはその問いに微笑んで答えた。
「行くだけだ。パリを去る」
「今では駄目なのかい!?私が言うように」
「うん。私をこのパリに引き留めている運命、それは恋なんだ」
 シェニエは立ち上がった。そしてルーシェに対して言った。
「私は今まで恋を感じたことはあっても恋をしたことはなかった。これは運命だ。巡り合わなければ永遠にやっては来ないものなんだ」
「それは僕も否定しないが」
「そうだろう、私のこの運命に今一人の女性がやって来ようとしている。彼女はその恋と共に私の前を訪れるだろう」
 シェニエは言葉を続けた。
「あの美しく、神聖な女が。私は彼女を待っていたんだ。その声が私の心を捉えるのを」
「そうか、それが君の言う運命なのか」
「そうなんだ、その人は私に手紙を与えてくれる。ある時は優しく、またある時は厳しい言葉で。私はその人の愛に震えているんだ。それは一人の若い女性だ」
「よくそれがわかったな」
「私の直感だ。そしてその直感はそれが正しいことを教えてくれている」
 それも全て恋の為せる業であろうか。
「私は信じる。そしてその為に全てを捧げよう」
「そうか。そして君は何故ここに留まるのだい!?知ってはいるだろうがここは色々と人目がある」
「その恋がここにやって来るとしたら?」
 シェニエは言った。
「まさか」
「これを見てくれ」
 シェニエはそう言うと今度は彼が懐から何かを取り出した。それは一通の手紙であった。
「これがその女性の手紙なのかい?」
「そうだ、読んでくれ」
「わかった」
 ルーシェは頷くとその手紙を受け取った。そして読みはじめた。
「ここで会うのかい?」
「うん」
 シェニエは頷いた。
「ここにその人がやって来るんだ、私に会う為に」
「そうか。だが気をつけるんだ」
 ルーシェは厳しい顔でシェニエに対して言った。
「僕はこの手紙に危険なものを感じる」
「危険なもの!?」
 シェニエは友の言葉に顔を顰めさせた。
「そうだ、確かにこの筆跡は女性のものだ」
 ルーシェはシェニエにその手紙の文字を見せながら言った。
「そして紙からは香りが漂う。薔薇の香りだ」
 それはその手紙の持ち主が高貴な生まれであるか裕福な育ちであることを示していた。
「だがその裏いは革命の火薬の匂いがする」
「革命の!?」
「そうだ、革命のだ。僕はここに罠があると見るね」
「まさか」
 シェニエはそれを否定した。
「いや、よく見てくれ。そして感じてくれ」
 ルーシェはまだシェニエに言った。
「僕は嘘は言わない、これは神に誓おう」
 彼もまた正直な男であった。
「この手紙の出所はある小さなサロンだ。何か退廃的な匂いがする。そしてその裏に僕は火薬の匂いを感じたんだ」
「それは君の杞憂だ」
「いや、僕はそうは思わない」
 彼はそう言うと首を横に振った。
「君の運命は今虎の牙の中にある。すぐにそこから逃げ出すんだ。さあ、この通行証を手にとって」
 そして再びその通行証を手渡そうとする。
「いや、私はそんなことは信じない」
 しかしシェニエはそれを受け取ろうとしなかった。
「君が信じる、信じないの問題じゃないんだ、僕は君を救いたいんだ」
 ルーシェは無理にでもその通行証を渡そうとする。しかしシェニエはそれを受け取らなかった。
「このパリがどんな街か君も知っているだろう」
 ルーシェは言った。
「昔から酒と淫らな宴が支配してきた街だ。浮気な女がそいじょそこらにたむろしている」
「だが彼女は違う」
 シェニエはその言葉を否定した。
「違わないさ、だが僕はそれを君に見せようとは思わない」
 そして言葉を続けた。
「君にこの通行証を受け取ってもらうだけだからね」
「だからそれは受け取れないと・・・・・・」
「頼む、これは僕の命なんだ」
 ルーシェは自らの命のことまで出した。
「これを手に入れる為にどれだけ苦労したか・・・・・・。僕はまずこれを手に入れたんだ。自分のものになぞ目もくれず」
「ルーシェ・・・・・・」
 シェニエはここでようやく友の気持ちを理解した。彼は自分が助かることよりまず友を救うことを優先させたのだ。
「受け取ってくれるね」
「うん」
 シェニエはようやくその通行証を受け取った。その時だった。
「ん!?」
 そこでペロネ橋の方から騒ぎ声が聞こえてきた。12
「何だいあれは」
「有り難いな」
 ルーシェはそれを見て微笑んだ。
「シェニエ、天の配剤だ。どうやらジャコバンの奴等が来るらしい」
「奴等が」
 シェニエはそれを聞いて顔を顰めさせた。
「彼等は何故あんなに熱狂的に処刑台を迎え入れることができるのだろう」
 彼は群集を見た後首を悲しそうに横に振って言った。
「かっての貴族達に仕え今は処刑台に仕えている。これでは何も変わらない。いや、さらに悪いじゃないか」
「シェニエ」
 ルーシェは言葉を出す彼を心配そうに見ている。
「そんなことを言っている時じゃない。すぐにここから立ち去るんだ。皆の気があちらに向いている間に。さあ」
「いや」
 だがシェニエはまた首を横に振った。
「私はあの者達を見ておきたい」
「何故だい!?」
「私の敵がどの様な連中かをね。いいかい」
「馬鹿なことを言う」
 今度はルーシェが首を横に振った。
「彼等に見つかったら大変だぞ」
「その時はその場で立ち向かうさ。そして堂々と言ってやる。私の主張が間違ってはいないと。そう」
 彼はここで顔を上げた。
「彼等が正しければ私を殺す理由はない。私を疎ましく思い排除しようとするのは彼等の心にやましいことがあるからだ」
「そうか、そこまで覚悟があるのなら」
 ルーシェも腹をくくった。
「僕も付き合おう。こうなったら乗りかかった船だ」
「有り難う」
 シェニエは友に対し礼を述べた。
「いいさ。僕も奴等にとっては邪魔な存在だしね。どうせなら最後まで見てやるさ」
 そして二人は橋の近くの森の陰に入った。それを遠くから見る影もいた。
「万歳!フランス万歳!」
 群集達の熱狂的な声がする。向こうから質素な身なりの一団がやって来る。
 質素といっても群集達と比べればかなりの差がある。それはかっての貴族達と比べてかなり質素だという意味だ。見れば青い上着に白いシャツに赤いタイ。黒いズボンと同じ色のブーツを履いている。所謂サン=キュロットだ。
 そして多くの者は顎鬚を生やしている。髪は前後で短く切っている。化粧もせず当然カツラも付け毛もしていない。
 これが彼等の服装であった。ジャコバン派はそれまでの貴族的な風俗を徹底的に排除していたのだ。
 彼等は歩いている。何故なら彼等も民衆と同じだからだ。
「歩いているな」
「ああ」
 ルーシェとシェニエはそれを見ながら囁き合っていた。
「ジャコバンの連中が質素で贅沢を嫌っているというのは本当らしいな」
「そうらしいな。彼等に腐敗はない。だが」
「だが!?」
 ルーシェはシェニエの言葉に問うた。
「だからといって彼等が正しいかというとそうではない。貴族達の贅沢とはまた違った意味での悪だ」
「悪か、彼等が」
「そうだ。それはすぐにわかる。いや」
 シェニエはここで言葉を変えた。
「私も君も既にわかっている筈だ」
「確かに」
 ルーシェも愚かな男ではない。学生時代より啓蒙思想に親しんできた。そして革命の一部始終をその目で見てきているのだ。
 だからこそ今橋の上にやって来た彼等の正体がわかっていた。彼等は自分達が言う様な存在では決してないのである。
「神と司祭達だ。姿形を変えた」
 シェニエが言った。
「確かに」
 ルーシェもそれに頷いた。見れば一団は中央にいる男を取り囲んでいた。
「万歳!ロベスピエール万歳!」
 群集は彼の姿を認めるとさらに声を大きくさせた。そこには白い髪に青い目をした男がいた。髭はない。背はやや小柄だ。見たところ政治家というより学者の様な顔をしている。鼻は高く顔は小さい。
「何かあまり悪辣な顔立ちではないな」
「確かにな。その生活は生真面目なものだと聞いている」
 シェニエの言葉は真実であった。ロベスピエールは自分にも他人にも厳しく清廉潔白な人物であった。しかしだからといって彼の思想が正しいとは限らないのだ。
「だが彼の命令一つで多くの者が死ぬ」
 ルーシェはそれを聞くとゴクリ、と喉を鳴らした。
「そしてフランスはギロチンにより支配される」
 革命委員会、公安委員会、革命裁判所。軍の目付け役。ジャコバン派が設けたものだ。これ等に逆らうことはそれだけで『革命の敵』とされた。ジャコバン派に異を唱えるのも『革命の敵』である。敵はギロチンに送られる。そして多くの貴族やジロンド派の後を追うことになるのだ。
 後を追うのは別に貴族やジロンド派、『革命の敵』だけではない。彼等にとって邪魔な存在は無辜の民衆ですら殺す。革命は貴族の血だけを欲していたのではないのだ。
「ロベスピエール、御前も俺の後を追うのだ!」
 かってのロベスピエールの同志であり、盟友であったジャコバン派の重鎮ダントンの言葉だ。彼等は盟友ですらギロチンに送ったのだ。
 マラーも死んだ。カミュも死んだ。革命はそれの為に身を捧げた者達の血をも飲み干そうとしていたのだ。
「あの男がいる限りフランスの血は止まらない」
 シェニエは言った。
「ジャコバン派がこの世にいる限りこの世から血は止まらない」
 この言葉は彼の後も残った。ジャコバン派が消えても残った。長い間人々に忘れ去られていたが細々と生き残っていた。そして甦るのだった。二十世紀の欧州に。
 ナチスとソ連。彼等の正体はこのジャコバン派に他ならなかった。彼等は新たなロベスピエールに率いられ世界を血で覆ったのだ。
「我々こそが絶対の正義なのだ!」
「逆らう者には死を!」
 そしてこの世は地獄と化した。二十世紀人類は最後まで彼等の影を払うことは出来なかった。
 シェニエは神ではない。だからそれは知らない。だが彼の言葉は真実であった。
「おや」
 シェニエはここで一人の男の存在に気付いた。
「ジャコバン派にいるとは聞いていたが」
 彼等の中にジェラールの姿を認めたのだ。彼は屋敷を飛び出した後すぐに起こった革命に身を投じた。
 最初はバスチーユに突撃する一人の兵士に過ぎなかった。だがやがてロベスピエールと出会い彼に認められる。そして頭角を現わし今では彼の同志の一人だと言われている。
 ジェラールは一団の一番後ろにいた。そこにあの影が来た。
「ジェラール様」
 影は既に服装をサン=キュロットに着替えている。そして目立たぬようジェラールに近付いた。
「見つかったか」
「詩人とその連れが見つかりました」
「そうか」
 シェニエとルーシェのことだ。
「彼等は今はいい。放っておいても構わない」
「よろしいのですか?」
「うん。ところで女は見つかったか」
「はい。確かにこの目で」
「そうか、ならいい」
 彼はそれを聞き目を細めた。
「遂に見つけたな。それも君のおかげだ。ロベスピエール同志には私から言っておこう」
「有り難き幸せ」
 彼はそれを聞くと恭しく頭を垂れた。
「待て」
 だがジェラールはそれを制した。
「我々は同志だ。その様な貴族の様な挨拶はいい」
「左様ですか」
「そうだ。我々は対等なのだからな。そうしたへりくだりは無用のものだ」
 これもまたジャコバンの考えである。だが彼等はその中心に絶対なる神を戴いている。偽りの平等なのだ。
「今夜にでもお会いできるでしょう。居場所はもう掴んでおります」
「そこまでやってくれたか」
「はい、これも仕事ですから」
「有り難う」
 彼は以前とは変わってはいない。少なくともその心はあの頃と同じである。そう、あの頃と。
「ご苦労、君の任務は終わりだ。ではこれからゆっくりと休むがいい」
「わかりました」
 密偵は頭を垂れた。そしてその場を後にした。
「金は大丈夫か」
「おかげさまで」
 後ろから声をかけてきたジェラールに答える。そして彼はそこから姿を消した。
「誰かを探し当てた様だな」
 シェニエはそれを見て呟いた。
「どうせ碌なことじゃないさ。ひょっとしたら我々かも」
「有り得るな」
 二人はそんな話をしていた。やがてジャコバンの議員達はテュイルリー公園に入った。そこで華美な色とりどりの淫らな服に身を包んだ女の一団が姿を現わした。
「娼婦達だ」
 ルーシェはそれを見てシェニエに囁いた。
「かっては貴族だった者達だ」
「そうか」
 シェニエはそれを見て頷いた。
「確かに彼女達は贅沢を欲しいままにしていた」
 彼の顔がみるみるうちに曇っていく。
「だが全てを奪い外に放り出せとは私は言わなかった」
 彼はそうしたあまりにも急進的な考えは否定していた。
「ましてやそのうえ命まで奪うなどとは」
 あくまでジャコバン派とは相容れなかった。彼は何処までも彼なのだから。
「暗くなってきたな」
 ルーシェは辺りを見回した。
「そうだな」
「こうした御時世だ。街には確かに無法者は少ない。しかし」
「無法者が権力を握り警官になっている。早いうちにここから姿を消すことにしよう。私はいいが君に迷惑がかかる」
「済まない」
 ルーシェはシェニエの気遣いに感謝した。ここでシェニエが言った無法者とはジャコバン派の手の者達のことである。彼等は将に無法者そのものであった。これもまた後世に受け継がれた。ナチスやソ連は将に凶悪犯が権力の座にあったのだ。犯罪が少ないのも当然であった。刑務所にいるべき人物が権力の座にあったのであるから。
「もし」
 ここで誰かが声をかけてきた。女の声だ。
「ん!?」
 二人はそちらに振り向いた。
「私では駄目でしょうか」
 先の娼婦の一人であった。
「ベルシ」
 シェニエは彼女を見て思わずその名を呼んだ。身なりは変わり果てていたがそれは確かにベルシであった。
「シェニエ」
 彼女もシェニエに気付いた。思わず声をあげた。だがその時であった。
「おお」
 ここで先程ジェラールに何か話していた密偵がやって来た。
「ベルシじゃないか。丁度いい」
「貴方は」
 シェニエが彼に声をかけた。密偵は彼に目を向けた。
(今はこの男は放っておいていい)
 彼はシェニエを知っている。だが今はあえて見逃すことにした。今目の前にいる女の方が重要であるからだ。
(どうせすぐにかかるしな)
 シェニエから目を離した。
「あんたに会いたいと思っていたんだ」
 そしてシェニエを無視してベルシに語り掛けた。
「私に?」
「そうだ、あんたにだ」
 彼は言った。
「あっちで話をしたいんだがいいか」
 そう言って橋の下を指し示す。
「安心してくれ。今日はあんたを買いに来たわけじゃない。だが金はたんまりと払う」
「本当!?」
 娼婦といっても好きでしているわけではない。見ず知らずの男に抱かれるのはやはり嫌だった。しかしそれもしなければならなかった。生きる為に。それをせずに金が手に入るのならそれにこしたことはなかった。
「ああ。私が嘘を言ったことがあるか」
「いいえ」
 密偵といっても彼はそれなりの知性と教養があった。だからこそジェラールも使っているのだ。
「では行こうか」
「ええ」
 そして二人は橋の下に消えて行った。
「客を取ったか。よくある光景だ」
 ルーシェはそれをあまり快い目で見てはいなかった。
「ああ」
 シェニエもそれは同じであった。二人は一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
「行くか」
「うん」
 二人は去ろうとした。橋の上を通り掛かる。その時だった。
「もし」
 ベルシが二人に声をかけてきた。
 客を取っていたのではなかったのか、二人はそう思ったがそれは隠してベルシに顔を向けた。
「何か」
 二人は彼女に応えた。
「アンドレア=シェニエさんですね。覚えておられますか」
「はい」
 シェニエは応えた。
「お久し振りです。まさかこの様なところでお会いできるとは思いませんでした」
「確かに」
 シェニエはここで人生とは皮肉なものだと思った。しかしそれも顔には出さない。
「あの時の宴以来ですね」
「はい」
 思えばあの時からもう五年の月日が流れている。時の経つのは早く、そして残酷なものであった。
「今では本当に懐かしい日々です」
「・・・・・・・・・」
 シェニエはそれについては何も言わなかった。言っても彼女を傷つけるだけだとわかっていたからだ。
「ところで貴方にお会いしたいという方がおられるのですが」
「誰ですか」
 用心はしていた。ジャコバン派の者ならば彼にも考えがあった。
「ご存知だと思いますが」
「む・・・・・・」
 手紙のことだと咄嗟に理解した。
「よろしいでしょうか」
「はい」
 密偵はその様子を橋の下で聞いていた。
「かかるか」
 彼は耳を澄ませ話を聞いている。
「シェニエ」
 ここでルーシェが出て来た。
「気持ちはわかるが」
 彼はすぐにそこに危険を嗅ぎ取っていた。
「いや」
 だがシェニエはそれに対し首を横に振った。彼には自分の考えがあった。
「私は会いたい、その人に」
「馬鹿な、正気か」
「正気でなかったらこんなことを言うと思うか」
「それは」
 ルーシェもそれはわかっていた。シェニエは決して冗談や一時の狂気でその様なことを言う男ではない。
「会いたい、そしてその女の人と話がしてみたい」
「そうか」
 ルーシェもそれを聞いて納得した。
「じゃあ行くがいい。僕はそれを温かく見守ろう」
「有り難う」
 彼は友に感謝の言葉を述べた。
「彼女は何処にいるんだい?」
「今夜この場所で」
「わかった、今夜だね」
「はい」
 ベルシは頷いた。
「では行こう、僕は一人で行く」
「シェニエ」
 ルーシェは友を気遣った。
「大丈夫さ」
 だが彼は笑顔でその心配に応えた。
「自分の身位守れるさ。かっては軍人だったしね」
「そうか、ならいい」
 言っても引く男ではない。ここは折れることにした。
「ただし、捕まらないようにな。君は狙われている」
「わかっている」
 わかっていようとも愛の為に死地に飛び込むのも詩人であった。シェニエは詩人である。
 彼等は別れた。シェニエとルーシェは隠れ家に、ベルシはマッダレーナのところに。そして密偵はジェラールのもとに。

 夜になった。橋に火が点いている。見ればパリの所々に火が灯されている。
 これが鯨油であった。それまで貴族達のものであった夜の灯りを民衆が手に入れたのだ。
「これで首を刎ねられた貴族の屍も焼いてやれ」
 灯りを点ける男が言う。パトロールの警官達はそれを目を細めて見ている。
「いい心掛けだ。貴族達をギロチンに送るのが俺達の仕事だからな」
 彼等は街の警備が主な仕事ではない。夜の闇に紛れてパリから逃れようとするジロンド派や貴族の残党達を捕らえるのが主な仕事だ。
「ほら、来い」
 見れば既に一人捕らえている。法衣を着ているところを見ると僧侶か。かって僧侶達も貴族達と共に特権階級にあった。むしろ貴族達よりも力があった。
「断頭台が待っているぞ。その前に全て吐かせてやる」
 警官の一人が僧侶の尻を蹴飛ばす。最早人間として扱ってはいない。
「来い、豚が」
 そして乱暴に引き立てて行く。僧侶の顔はまるで肉屋に連れて行かれる牛の様であった。
「おい」
 その僧侶の背を見ながら別の警官が同僚に言った。
「俺はあの坊さんを知っているのだが」
「そうなのか」
 言葉をかけられたその警官は意外そうな顔で応えた。
「あの坊さんは別に悪い人じゃないぜ。むしろいい人だ」
「そうなのか」
「ああ。困っている人も助けていたし真面目に教えていた。私腹を肥やしたりもしていなかった」
「そうか。しかしそれは絶対に言うなよ、俺以外には」
「わかってるさ」
 その警官は顔を顰めて答えた。彼等は親友同士なのだ。
 今は貴族であるだけで、僧侶であるだけで罪であったのだ。革命に異を唱えるだけで罪であったのだ。
 しかし誰もそれには言わない。革命こそが絶対の正義であるからだ。そしてそれに逆らうことは絶対に許されないことであるからだ。もし逆らえば待っているのは死だけであった。
「行こう。まだ回るところはある」
「ああ」
 彼等は僧侶を引き立てていく同僚と別れ次の巡検場所に向かった。そしてそこには誰もいなくなった。だがすぐに影が姿を現わした。
「ここか」
 あの密偵であった。キョロキョロと辺りを探っている。
「もうそろそろ来る頃かな」 
 彼はそう呟くと物陰に消えた。やがてそこに一人の女が姿を現わした。
「ここね、ベルシが言ったのは」
 マッダレーナであった。みすぼらしい赤い服に黒い靴、そして上からヴェールを被っている。何かから身を守ろうとしているようであった。
 先程の警官達は貴族や僧侶と見れば容赦なく捕らえる。そう、彼女も例外ではないのだ。
「記念の像。夜見るとこんなに無気味なものだったの」
 マラーの像を見て呟く。それはまるで夜の闇の中に立つ魔神の様であった。
「マッダレーナか」
 密偵は物陰から彼女を見て呟いた。
「さて、肝心の獲物は来るかな。彼女は言うならば獲物を捕らえる鷹か。いい鷹であってくれればよいが」
 そう言ってニヤリと笑う。そして物陰に姿を隠した。
 やがて誰かがこちらにやって来た。灯りの中にぼんやりと姿が見えている。
「あれは」
 マッダレーナも密偵もそちらに目をやった。その灯りの中に見える男はゆっくりと近付いてきていた。
「あの人だわ」
 マッダレーナはその姿を片時も忘れたことはなかった。あの時から。そう、彼が今姿を現わしたのだ。
「アンドレア=シェニエさんですね」
「はい」
 シェニエはマッダレーナの問いに答えた。彼は彼女の手紙のことは知っている。しかし誰なのかは知らない。
「貴女が手紙を送って下さったのですね」
「はい」
 マッダレーナは答えた。
「私です」
「そうなのですか。では私にお会いしたいというのは」
「はい、それも私です」
 彼女はそれを認めた。
「そうなのですか。ではよろしければお名前を教えて頂きたいのですか」
「おわかりになりませんか」
 マッダレーナは問うた。
「申し訳ないですが」 
 シェニエはそれに対してうなだれて答えた。
「仕方ありませんね」
 それもそうだった。あれからもう何年も経っているのだ。
 密偵はそれを用心深く窺っている。物陰から見る。
「いいぞ、その調子だ」
 彼は場所を変えた。そして二人に近寄る。
「シェニエ様」
「はい」
「貴方はご存知の筈です」
「私がですか」
「ええ」
 マッダレーナはそう言って彼に微笑んだ。
「かって貴方に目覚めさせて頂いたのですから」
「貴方をですか」
「ええ。あの時は腹立たしくも思いましたが今では感謝しています」
 彼女の顔からは笑みが絶えることはない。どうやら彼に感謝しているというのは本当のようだ」
「ふむ」
 彼は口に手を当てて考え込んだ。
「昔のことですよね」
「はい」
「少し待って下さい」
 彼は手で彼女を制しながら言った。
「暫く思い出すことに努力します」
「どうぞ」
 そして彼は自分の記憶をたどりはじめた。
「この声は何処かで」
「貴女は愛を知ってはおりません」
 マッダレーナはここで言った。
「愛を」
「ええ」
 彼女はシェニエにあえてこう言ったのだ。
「そういえば私の詩で使ったことのある言葉だ」
 彼女はここでまた言った。
「愛とは神が与えられるもので軽蔑してはいけません」
「これは」
 ようやく思い出した。それは五年前の宴の時の詩だ。
「まさか」
 シェニエはようやく悟った。咄嗟にマッダレーナの方を向く。
「貴女は」
「思い出していただけましたか」
「宜しければそのお顔を拝見したいのですが」
「喜んだ」
 マッダレーナはヴェールを脱いだ。そしてその顔を見せた。
「おお」
 シェニエはその顔を見て思わず声をあげた。そしてすぐに記憶が甦ってきた。
「あの顔だ」
 密偵は彼女の顔を認めて言った。
「間違いないぞ」
 彼もまた確信したそしてすぐにその場を去った。
「すぐに同志ジェラールにお伝えしよう」
 そして足早にその場を後にした。
「まさか貴女だったとは」
 あの宴の日々が甦って来る。そして目の前にいる彼女はあの時から成長してさらに美しくなっていた。
「マッダレーナさん、よくぞご無事で」
「全ては神のご加護です」
 彼女は微笑んでそう言った。
「それにしてもよくぞここまで来られました」
「全ては貴方にお会いする為に」
「しかしそれでも」
「その時は私は侍女を装いますわ」
 そしてまたヴェールを被った。
「このようにして」
「そうですか」
 シェニエは心の中で彼女の変わり様に驚いていた。
 かって彼女は何も知らない貴族の箱入り娘であった。苦労も他の者のことも何一つ知らなかった。だが今は違う。
 五年もの年月が彼女を変えた。今の彼女は世を知る聡明な女性であったのだ。
(革命、いやそれにより時代の変化が彼女を変えたのか)
 シェニエはそれを見て思った。
(それにしても何と美しい)
 そして歳月は彼女自身をも変えていた。
 少女が今では魅力的な女性になっていた。若い薔薇が今では大輪になっていた。
「シェニエ様」
「はい」
 マッダレーナが言葉をかけてきた。
「あれから色々とありました。その中で私は貴方のことを思うようになったのです」
「私のことを」
「そうです。夢に見たことも幾度もありました。私は最初何故だかわかりませんでした」
「夢にまで」
「はい。そして革命の最中私は考えました。この激動の中で」
「大変だったでしょう」
「いえ」
 口では否定してもその記憶までは否定できない。多くの苦難が彼女を襲った。
「ベルシがいましたから。私の親友が」
「彼女が」
「はい。身を売ってまでして私を守ってくれました」
「何と」
 シェニエもそれには口を固く閉ざした。
「そこまでして貴女を」
「私も身を売る以外のことは全てしました。家のものも何もかも売って服さえも売って」
 彼女の家には資産があった。革命派に奪われる前にそれを売ったのだ。
「賄賂にもなりました。生きる為の」
「ジャコバンの者達にですね」
「ええ。そうして何度も危ないところを切り抜けました」
「大変だったでしょう」
「いえ、ベルシに比べれば」
 彼女の家はマッダレーナの家程多くの資産はなかった。そして屋敷を襲われそこで両親も家族も殺された。かろうじて逃げ延びた彼女だが残ったのはその身一つだったのだ。女性が生きていくには娼婦になるしかなかったのだ。
「そして私達はこのパリで隠れる様にして生きてきました。その中で貴方のお話をお聞きしたのです」
「私のですか」
「そうです。そして次第に貴方へのお気持ちを抑えられなくなりました。そして遂に抑えきれなくなり手紙をお送りしたのです」
「それがあの一連の手紙だったのですね」
「はい」
 マッダレーナは頷いた。シェニエはジャコバン派を批判する者として度々話題になっていたのだ。ロベスピエールも彼を危険視するようになっていた。
「そして今貴方にお会いする為にここへ来ました」
「危険も顧みずに」
「危険なぞ今まで幾度も切り抜けてきました。今更何程のことがありましょう」
 シェニエはその言葉にまた感じ入った。
(彼女はもう貴族の深窓の令嬢などではない)
 そう、かっての彼女は死んでいたのだ。
 今ここにいるマッダレーナはかっての幼虫から美しい蝶へと変わっていた。外見だけでなく心もだ。
 シェニエは彼女に魅せられてきているのを感じていた。彼はそれを拒まなかった。
「お聞き下さい」
 マッダレーナは言った。
「この一月の間私は誰かにつけ回されています」
「ジャコバン派の密偵ですか!?」
「わかりません。おそらくはそうだと思いますが」
「厄介ですね。私もマークされていますが奴等は極めて執念深い」
「わかっています。しかしそれでベルシに迷惑をかけるつもりはありません」
「どうされるおつもりですか?」
「私は自分の身は自分で守ります。それが私の生き方です」
 彼女は毅然とした声でそう言った。
「ご自身で」
「はい、何があろうともベルシを巻き込みたくはありません」
「わかりました」
 シェニエはそれを聞いて言った。
「では私が貴女を御守りします」
「え・・・・・・」
 マッダレーナは思わず言葉を失った。
「何かご不満でも」
「いえ」
 不満なぞなかったただその申し出が信じられなかったのだ。
「本当でしょうか」
「私は嘘は言いません」
 彼はそう言い切った。
「この命にかえて貴女を御守りしましょう」
「シェニエ様・・・・・・」
「その命預けて下さいますか」
「喜んで」
 マッダレーナはコクリ、と頷いた。
「よかった、ではこれから私は貴女の為に全てを捧げます」
「全てをですか」
「ええ。では行きましょう、ここは危ない」
「はい」
 二人はその場を去ろうとする。シェニエは辺りを慎重に探る。
「大丈夫です、行きましょう」
 シェニエが先に行く。そして進んで行く。やがて二人の行く先に誰かが姿を現わした。
「ルーシェか!?違うな」
 シルエットを見てすぐに悟った。杖を持つ手に力を入れる。
「やっとお会いすることができた」
「誰だ、君は」
 シェニエは彼の名を尋ねた。
「そういう君こそ誰だ」
 その者は逆にシェニエに問うてきた。
「私はジェラールだ」
「ロベスピエールの側近のか」
「如何にも」
 ジェラールはそう言ってこちらに歩み寄ってきた。
「君が誰だか知らないが」
 どうやらシェニエだとは気付いていないようだ。
「私はそこにいる女性を保護する為にここに来た」
「保護!?」
「そうだ。その人は今危機にある。私はそれを救いに来たのだ」
「面白いことを言う」
 シェニエはややシニカルに言った。
「彼女に危機を与えているのは君達ではないか」
「私は違う」
 ジェラールは怯むことなく言った。
「マッダレーナ」
 そして彼女の名を呼んだ。
「私のことを覚えておられるでしょうか」
「貴方のことを」
「そう、かって私は貴女の家にいた。そう、あの頃は卑しく使われるだけだった」
「まさか」 
 マッダレーナはその声にハッとした。
「貴方はまさか」
「心当たりが」
「はい」
 シェニエの問いに答えた。
「覚えておられますか、あの時の宴の最後を」
「ええ。確か使用人の一人が民衆を連れてその場を立ち去った」
「そう」
 ジェラールはそれを聞き満足したような声を出した。
「それを知っている君も貴族だな。だがその品性は決して卑しくはない」
 ジェラールにとって貴族とは全て卑しく、排他されるべき存在であった。だからこそ彼は革命に参加したのだ。
「ジェラール、一つ忠告しておこう」
「何だね、騎士殿」
「君はロベスピエールのことをよくわかっている筈だ。おそらく私よりも」
「それが何か」
 ジェラールはピクリ、と眉を顰めた。
「彼は危険だ。あれでは王政より遥かに悪い」
「言っている意味がよくわからないが」
 彼はあえてとぼけてそう答えた。
「誤魔化す必要はない。君ならば既に気付いていると思う。すぐに手を引くんだ」
「それはできない」
 だがジェラールはそれを断った。
「私は革命に命を捧げたのだ。今更退くことはできない」
「そうか。なら仕方ないな」
「そしてもう一つ言っておこう」
「何だ!?」
「彼女は私のものだ。さあ、渡してもらおう」
「クッ」
 シェニエは杖を構えた。ジェラールはそれに構わず少しずつ近付いてくる。その手には拳銃があった。
「まずいな、このままでは」
「一つ聞きたい」
 ここでジェラールはシェニエに尋ねてきた。
「何だ」
「良かったら君の名を教えて欲しいのだが」
「私の名か」
「そうだ。どうやら名のある方とお見受けするが」
「そうか」
 ジェラールには別に悪意はない。彼は紳士的な立場から尋ねてきているのだ。
「わかった」
 シェニエは頷いた。そして静かに名乗った。
「私の名はシェニエ。アンドレア=シェニエという」
「アンドレア=シェニエ!?まさか」
 ジェラールはそれを聞いて大いに驚いた。
「まさかこんなところで」
「どうやら私のことを知っているようだな」
「知らない筈がない、君はお尋ね者だからな」
「そうか。では今ここで私を射殺するかね。革命に対する罪で」
「うう」
 ジェラールは戸惑った。彼はこうした時、弱い女性を守る男を撃てる男ではなかった。
(だが逃がすわけにはいかない)
 しかしジャコバンとしての理念が彼にそう囁いていた。だがそれもまた。
 彼は逡巡していた。動きが止まっていた。その時だった。
「シェニエ、そこにいたか!」
 誰かがこちらに駆けてきていた。ルーシェの声だ。
「ルーシェ!」
 シェニエはその声がした方に顔を向けた。
「心配になって来てみたら危ないようだな、加勢するぞ!」
「いや」
 だがシェニエはそれを断った。
「私よりもこの女性を、彼女を安全な場所まで!」
「わかった、そうしよう!」
 ルーシェはこちらに辿り着くとマッダレーナの前に来た。そして彼女の手を取った。
「さあ、こちらへ」
「え、ええ」
 マッダレーナはルーシェに連れられ安全な場所まで逃れていく。あとにはシェニエとジェラールが残った。
「さあ、ジェラールよ」
 シェニエは暗闇の中彼を見据えた。その目が慣れてきていた。
「どうするつもりだ」
「どうするつもりか、か」
 ジェラールは言った。
「そうだ。君は銃、私は杖だ。勝負は見えている。おそらく一撃で全ては終わる」
「そうだろうな」
「だが私とてただでは死なない」
 彼は強い口調で言った。
「最後に力で君を倒すこと位はできる。例え心臓を撃ち抜かれてもな」
「心臓をか」
「そうだ。彼女を逃がす為ならな」
「彼女をか」
 ジェラールはそれを聞いて何かを思ったようである。
「わかった」
 そう言うと銃を構えていた腕を下ろした。
「行くがいい。今君をどうこうするつもりはない」
「何故だ」
 シェニエは警戒を解かないまま尋ねた。彼の行動を意外に思った。
「彼女を守ってくれ。今の男一人ではパリの街は心許ない」
「ジェラール」
「勘違いしないで欲しい。君が革命の敵であることには変わりない」
「革命の敵、か」
「そうだ。だが今の彼女には君が必要だ。悔しいがそれは認める」
「そうか」
「すぐに行くがいい。そして彼女を守るんだ」
「よし」
 シェニエは踵を返した。そして二人の後を追う。
「一つ言っておく」
「何だ」
 シェニエはその言葉に顔を振り向かさせた。
「今度会った時一人ならば容赦しない。捕らえたならばな」
「わかっている。それでは」
「ああ」
 シェニエはその場を走り去った。そして二人の後を追って消えていく。
「頼んだぞ」
 ジェラールはその後ろ姿を見送って声をかけた。そして彼も闇の中へ消えていった。



今までと立場が入れ替わっている。
美姫 「果たして、これからどう物語は展開をしていくのかしらね」
うーん。どうなるのだろうか。
美姫 「まだまだ三人の動きに注目ね」
一体、次はどうなるのか。
美姫 「次回も楽しみにしてますね〜」
ではでは。



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