第一幕 伯爵家の居城


 革命による血の帳がフランスを支配する前である。貴族達は今日も何時まで続くかわからぬ宴を楽しんでいた。
 よく搾取だ、収奪だの言われる。だが当時のフランスではそれが普通だったのである。貴族達は確かに贅沢の中に身を浸してはいたがそれが彼等を悪と断罪する根拠にはならない。
 それが当時のフランスの社会だったのである。こう言ってしまえば責任逃れになるが社会そのものに矛盾があった。
 しかしその矛盾は徐々に正していかなくてはならないものである。一挙に多くの者を悪と決めつけ断罪したならば人はそれで地獄の裁判官達と同じになってしまう。
 だが今未来の血の世界を誰も知らなかった。そして今は宴の用意が行なわれている。
 みらびやかなサンルームである。黄金色の日の光が差し込み大理石の壁と床、金や銀、様々な宝玉で飾られた部屋を照らしている。その中を綺麗な服を着た男達が動き回っている。
「そう、それはそこに」
 その中央に一際立派な服を着た男がいて他の者に指示を出している。この家の家令だろうか。
 皆彼の指示に従い家具や植木鉢を動かしている。どうやら今夜の宴の準備のようだ。
「植木鉢は何処に置きますか?」
 制服の男の一人が彼に問うた。
「そうだなあ」
 彼はそれを聞いて考えた。
「あっちに置いて」
 そして部屋の隅を指差して指示を出した。
「気をつけてな。割っても大変だし御前さんの身体も傷つけてしまう」
「わかりました」
 思ったより優しい家令のようである。他の者のことも気遣っている。
「あ、ジェラール」

 家令は側にいる長身の男に声をかけた。
「はい」
 ジェラールと呼ばれたその男は答えた。黒く豊かな髪に彫りの深い精悍な顔立ちをしている。身体つきもいい。
 だが特に彼の外見で印象的なのはその黒い青がかった瞳である。知性をたたえ情熱が溢れ出るようである。この場ににつかわしぬ程の強い光をたたえた瞳である。
「君はこのソファーを向こうに置いてくれ」
 そう言って側にあるソファーをポンと叩いた。
「わかりました」
 彼は頷いてそのソファーを手にとった。
「あとは・・・・・・」
 家令は色々と考え指示を出した。そして準備はすぐに終わった。
「これで大体終わったかな。よし皆、休憩といこう」
「わかりました」
 使用人達は笑顔で答えた。
「奥方がおやつを用意してくれている。それでもいただこう」
「お菓子ですか?」
 使用人達はそれを聞いて目を輝かせた。
「ああ、何でもとびきり上等のものらしいぞ。我々に特別に差し上げてくださったんだ」
「有り難いなあ、本当に優しい奥方様だ」
 この家の主人もその妻も心優しい主として知られている。報酬は弾むし何かと親身になってくれる。だから使用人達には評判がいい。
「そう思うだろう。わし等が今こうしていられるのも御主人様や奥方様のおかげだ」
 家令は笑顔で言った。皆その言葉に頷く。
 だが一人だけ別だった。ジェラールだけはその言葉に背を向けていた。
「じゃあ行こう。甘いお茶と美味しいお菓子がわし等を待っているぞ」
「はい」
 彼等は部屋を出ようとする。だがジェラールだけは出ようとはしない。
「おや」
 家令がそれに気付いた。
「ジェラール、君も来いよ。折角の奥方様からのご好意だぞ」
「いえ、甘いものは苦手ですので」
 彼はそう言って断った。
「そうか、なら仕方ないな」
 家令はそれを聞いて言った。
「じゃあ一人でゆっくり休んでいてくれ。わし等は向こうにいるから」
「はい」
 ジェラールは彼等を見送った。
「本ばかり読んでないでたまにはわし等と一緒にくつろぐのもいいぞ」
 彼はそう言ってサンルームをあとにした。そしてその場を他の者達を連れてあとにした。
「さてと」
 彼は空いている場所に腰掛けようとした。だが側にあるソファーを見下ろした。
「御前は気楽なものだな。そうやってそこで貴族共の相手をしていればいいのだからな」
 彼のその声は嫌悪に満ちたものだった。
「あのキザで鼻持ちならない連中の相手はさぞ楽しいことだろう。昨日もあの若い嫌味な修道僧が付けボクロをした男爵夫人に声をかけるのを楽しそうに見ているだけだった」
 彼は貴族達を心の奥底から嫌悪していた。いや、それは憎悪であった。
「厚化粧をして滑稽な髪形をしたあの忌々しい女達。あの連中の情事を受けていればいいだけだしな」
 当時のフランス貴族達はロココの中に溺れていた。酒と飽食、そして荒淫の世界に住んでいたのだ。
 それに対して民衆の生活は質素なものであった。ジェラールはそれが許せなかったのだ。
「神がそれを許すというのか!?だったらそんな神なぞいらない。俺は俺の信念のままに生きたい」
 正義感の強い男であった。そして生真面目であった。
 そこに一人の年老いた男が入って来た。ジェラールと同じ服を着た白髪で皺だらけの顔をした小柄な老人だ。
「お父さん」
 彼はその老人に声をかけた。
「おおジェラールか。皆はどうした」
「向こうで休憩をとっています。何でも奥方様からいただいたお菓子があるとか」
「そうか、それは有り難いのう」
 彼はそう言うと歯の殆ど残っていない口を開けて笑った。
「いつもあの方にはよくしていただいている。それに報いなければのう」
 彼の父は善良な男であった。ジェラールは幼い時に母を亡くし以後男手一つで育てられてきたのだ。
「庭の方は終わったぞ。御主人様も奥方様もわしが手入れした庭が一番じゃと言って下さる。有り難いことじゃ」
「そうですね」
 ジェラールの返答は何処か空虚だった。
「ではわしも休ませてもらうとしよう。この身体も時には休みが必要じゃ」
 彼はそう言うと家令達が入っていった扉を開けた。そしてその中にゆっくりと入った。
「そうして六十年もこの城にいるのですね」
 ジェラールは父の後ろ姿を見送って言った。
「あの高慢な連中の為に汗を流し何もかもを捧げてきた。自分の妻の死に目にも遭えなかったというのに不平一つ言わなかった」
 そんな父だからこそ彼は尊敬することができた。愛することができたのだ。
「それをあの連中は当然のように考えている。我々は仕え、跪くのが当然だと思っている」
 彼はここでサンルームを見渡した。
「虚構と偽善に満ちた部屋だ。所詮は幻影に過ぎない」
 その黒い瞳には怒りが浮かんでいた。
「絹やレースで着飾ったあの愚かな連中が笑い合い踊るこの場に一体何があるというのだ、何もないではないか」
 呟いているだけで怒りが満ちていく。
「そして楽しい音楽にうつつを抜かしているがいい。そのうちに貴様等は自らの下僕に裁かれるのだ。そして行く先は処刑台だ」
 もし誰かに聞かれたらただではすまないだろう。しかし彼は自身の怒りを抑えることができなかったのだ。
 そこへ何人かやって来た。三人いる。
「あら、また綺麗にやってくれたのね」
 先頭にいるのは中年の女性である。金色の髪を上でまとめ化粧をしている。だが化粧なぞしなくとも整った顔立ちをしている。瞳は湖の色である。
 長身を紅の絹のドレスで包んでいる。その身体もよく均整がとれている。
「ジェラール、皆は何処へ行ったの?」
 彼女はジェラールの姿を認めると彼に声をかけてきた。
「奥方様、只今休憩をとっております」
 彼は頭を垂れて答えた。
「そう、よくやってくれたわ。ゆっくり休んでくれるように言って」
「はい」
 ジェラールはそれを聞き内心怒りに燃えた。その言葉を傲慢と受け取ったからであった。
 しかし奥方にとってそれは傲慢ではなかった。彼女はあくまで親切心からそう言ったのである。
 二人は互いに誤解していた。奥方であるこの伯爵夫人は自分の中にその傲慢さがあるとは気付いていなかったしジェラールは彼女の親切心を見ようともしなかったのである。
(フン、この思い上がった女め、今に見ていろ。正義が貴様等を何時か裁く)
 彼はそう思ったが当然口には出さない。そして顔を上げた。
 見れば彼女の後ろにはあと二人着飾った女性がいた。二人共伯爵夫人より遥かに若い。母と娘程離れている。一人は赤い髪に緑の瞳を持つ小柄な女性である。ピンクのドレスを着て所々に付けボクロをしている。
「綺麗ね、マッダレーナ」
 そして隣にいる女性に声をかけた。
「ええ、ベルシ」
 マッダレーナと呼ばれた女性を見てジェラールはうっとりとした。確かにその少女は美しかった。
 茶がかった金の髪を下している。そしてその瞳は青く澄んでいる。白く透き通るような肌を持ち顔はあどけないながらもまるでギリシアの彫刻の様に整っている。
 その長身もそうであった。均整がとれそれを白い雪の様なドレスで包んでいる。
「今日も楽しい宴が行われるのね。私今日は歌が聴きたいわ」
「ええ、御前の好きなバイオリンを用意しておきましたよ」
 伯爵夫人はマッダレーナを振り向いて言った。
「有り難う、お母様」
 この二人は母娘である。つまりジェラールにとっては主人である。
(この方だけは違う。この腐り果てた城においても)
 ジェラールは密かに想った。
 しかしそれを口に出すことは決してない。ただ想うだけである。
「じゃああとお願いすることは」 
 伯爵夫人は慎重に中をチェックしている。
「シャンデリアだけね。それはあとでね」
「はい」
 ジェラールは頷いた。
「歌手達の様子も見なくちゃ。本当にやることがあって大変」
 彼女はそう言うとその場をあとにした。マッダレーナとベルシもそれに続いた。
「高嶺の花だな」
 ジェラールはマッダレーナを見送って呟いた。
「だが想うことはできる。それを否定することは誰にも出来ない筈だ」
 彼はそう言うと空いている場所に腰を下ろし休んだ。やがて休憩も終わりシャンデリアに灯りが灯された。

 そして客がやって来る時間になった。伯爵夫人は今度は客人達の出迎えに向かった。
「お母様」
 マッダレーナはサンルームの入口で客人達を出迎える母に尋ねた。
「今日は高名な詩人の方が来られるそうだけれど」
「フレヴィルさんかしら」
「あの方は文筆家だったと思うけれど」
「そうだったわね、一体誰だったかしら」
 そんな話をしていた。ジェラールはそれを部屋の端で客人達を席に案内しながら聞いていた。
「フレヴィル?イタリアからわざわざ来たのか」
 彼はそれを聞いて顔を入口に向けた。
「それに詩人も来るのか。どうせいつもの軽薄な奴だろう」
 彼はあまり詩というものを好まなかった。貴族の余興程度に思っていた。
 マッダレーナは両親と一緒に客人達を出迎えている。ジェラールはそんな彼女をしばし見ていたがやがて視線を離して仕事に専念した。
 仕事は順調ではあった。だが忙しい。それは誰もが同じであった。
 だがジェラール達はすぐにその場をあとにした。他の仕事が入ったのである。
「おい、行こうぜ」
「ああ」
 彼は同僚に促されその場をあとにした。
 マッダレーナは部屋の端で自分のドレスを見ていた。どうも今一つ気に入らないらしい。
「何か変じゃない?」
 ベルシに問うた。
「そうかしら」
 彼女は首を傾げた。
「私はそうは思わないけれど」
「そう?」
「ええ。貴女白いのが似合うし」
「いえ、色じゃなくて」
 彼女はベルシに対して言った。
「デザインはどうかしら」
「悪くないと思うわ」
「本当!?」
「ええ、本当」
 彼女は素直に答えた。
「ううん」
 だがマッダレーナはまだ不満そうである。
「どうしたのよ、今日は」
 ベルシはそんな彼女に対して言った。
「ちょっと裾が」
 マッダレーナが気になっているのはドレスの裾であったのだ。
「そんなに悪いと思わないけれど」
 ベルシはその裾を見て言った。
「私はこんな派手なのはあまり好きじゃないの。無理してまで自分を綺麗に見せて何なるというの?」
「あら、随分我が儘ね」
「そうかしら」
 マッダレーナは友人のその言葉にキョトンとした。
「ええ、貴女は充分美しいわ。それに胡坐をかいて努力しようとしないなんて」
「そういうわけじゃないの」
 マッダレーナはその言葉を否定した。
「ではどうして?」
「私は着飾ったり宝石で身を包みたくはないの。そんなの普通じゃないわ」
「よくわからないわ」
 ベルシはその言葉が理解できなかった。彼女は豪奢なドレスも宝石も大好きであった。それで実を飾ることは素晴らしいことだと思っていた。だがマッダレーナはそれを喜ばない。かえって不自然にすら思えた。
「こうしたドレスよりも普段着の方がいい。私は窮屈なのも派手なのも嫌いなの」
 その顔はあきらかに嫌悪が浮かんでいた。だが彼女はそれをすぐに消した。
「けれど今は仕方がないわ」
 そう言って微笑んだ。
「お母様の為にも」
 そこで伯爵夫人が戻って来た。とある重要な客人を自ら席に案内していたのだ。王家に縁のある公爵であった。
「綺麗な薔薇を着けているわね」
 ふとマッダレーナが頭に着けている真紅の薔薇を見て言った。
「え、ええ」
 どうやら母は彼女の内心を知らないようだ。
「よく似合ってるわ。私も一輪欲しい位」
「宜しければお渡し致しますわ」
「いえ、それはいいわ」
 彼女は娘の申し出をやんわりと拒んだ。
「その薔薇は貴女に相応しいもの。私なんかには勿体無いわ」
「そうかしら」
「そうよ。若い乙女には薔薇がよく似合うものだから」
「あまりそうは思わないけれど」
 マッダレーナはこの薔薇を頭に飾るのも否定的だった。とかく豪奢な装飾は好まなかったのだ。
 見れば母は父と共に客人達を出迎えている。そして口々に世辞を言う。
「何と優雅な」
「何と美しい」
「お会いできて光栄ですわ」
 全て社交辞令である。それはもう儀式なのであるがマッダレーナはそれも好きにはなれなかった。彼女はそうしたお世辞も好きではなかったのである。
「そんな心にもないことを言ってどうするのかしら」
 そうは思っていても口には出せない。それが貴族の世界であった。
 ジェラールもこの虚構を嫌悪していたのである。だがマッダレーナの思いとジェラールの嫌悪は全く異なるものであった。彼女はその世界の中にいて彼はその世界の外にいる。それだけで見るものが違うのだ。感じることも違うのだ。
 それはマッダレーナにもジェラールにもわからない。人間というのは別の世界のことはなかなかわからないものなのだ。例え注意していても。
 マッダレーナもジェラールもその性質が善であることは事実だ。だがそれが人を正しい方向へ導くかというと決してそうではない。逆に誤った方へ導くこともある。
 その逆もある。それは人間にはわからない。わかるとすれば神だけである。だがジェラールは神を否定する。
「こうした虚構を作る神なぞ・・・・・・」
 仕事を終えた彼は城を去り何処かへと消えた。その行く先を誰にも告げずに。
 やがて伯爵夫人とマッダレーナのところにフレヴィルがやって来た。
 黒い髪に黒い瞳を持つ派手に着飾った男である。イタリア出身らしい彫の深い顔立ちに見事な着こなしである。伊達男と評判のあるイタリア男だけはあった。
「奥様、お久し振りでございます」
 彼はそう言うと恭しく頭を垂れた。その身のこなしも優雅である。
「こちらこそ」
 伯爵夫人やマッダレーナも挨拶を返す。だがその優雅さでは彼に劣っていた。
「私のような軽輩をお招き頂くとは。身に余る光栄です」
「いえ、そんな」
「いえいえ、感激あまり今日は友人と二名連れて来ました」
「お友達を?」
「はい、こちらに」
 彼は微笑むと左に控える二人の男を手で指し示した。
「まずはフランド=フィオリネルリ」
 フレヴィルに紹介されたのは中年のやや肥え太った男であった。茶色い髪と瞳を持ちあまり背は高くない。どちらかというと美男子というより愛嬌のある外見、顔立ちである。
「はじめまして」
 フィオフネルリはマッダレーナ達に笑顔で答礼した。
「イタリアの貴族にして音楽家であります。遂この前スカラ座で上演したオペラが大好評でした」
「まあ、スカラ座で」
 オーストリアのマリア=テレジアがミラノに建てさせたスカラ座はこの時から欧州で最も権威のあるオペラハウスであった。そこで成功するということは音楽家としての栄誉であった。
「まあどちらかというと音楽家よりコメディアンの方が似合うかも知れませんが」
 ここでフレヴィルは冗談を言った。
「おい、それは酷いぞ」
 フィオフネルリはそれを聞き少し怒ったように見せた。勿論本気ではない。声もやはりかん高くユーモラスである。
「ははは、これは失敬。この通り明るくてユーモアのわかる人物です」
「このような底意地の悪い男と付き合っているとそうもなります」
 彼はフレヴィルに嫌味を言いながら自己紹介をした。やはり彼はユーモラスな人物である。
「続きましては若き外交官にして詩人」
 フレヴィルは続けてもう一人の男を紹介した。
「アンドレア=シェニエです」
「はじめまして」
 シェニエと呼ばれたその男は軽く会釈をした。銀の髪に黒い瞳を持つ細面で端正な顔立ちの男である。その彫のある瞳は優しいが強い光を放っている。あまり背は高くないが姿勢がいいのだろう、堂々としている。そして青いイタリア風の服を着ている。そのタイは赤くそこから白いシャツが見えている。
「・・・・・・・・・」
 マッダレーナはその姿を見て暫し呆然とした。まるで何かに魅入られたかのようであった。
「マッダレーナ」
 伯爵夫人はそんな彼女に声をかけた。
「あ、はい」
 彼女はそれに気付き不意に言葉を返した。
「挨拶をなさい」
「はい、申し訳ありません」
 彼女は慌ててシェニエに挨拶をした。
「申し訳ありません、無作法な娘でして」
「いえいえ、決してそうは思いません」
 シェニエはそれに対し微笑んで返した。
「見たところしっかりした方でいらっしゃる」
「そうでしょうか」
 伯爵夫人はシェニエの言葉に苦笑した。
「世間知らずというのなら同意いたしますけれど」
「そんなことはありませんよ。芯は非常に強いと見受けられます」
「またそんなご冗談を」
「奥様、私は冗談は申しません。こう見えてもかっては軍人でありましたから」
「そうなのですか?」
「はい、海軍におりました」
 実は彼の生い立ちは複雑であった。フランスの外交官である父とスペイン系ギリシア人である母との間に生まれた。場所は当時父が赴任していたオスマン=トルコの首都コンスタンチノープルであった。フランスとはかなり異なった場所、そして状況で生まれ育ってきた。
 海軍には幼年学校に在籍していた。だが後に陸軍の連隊に士官候補生として入隊している。そして今は外交官をしている。当時のフランスの貴族社会がそうであったように落ち着かずその才をいささかもてあましていた。そしてその才を詩に向けるようになったのである。
「といっても陸軍にもおりましたが」
 彼は微笑んでその経歴を話した。
「あら、それは」
 伯爵夫人はそれを聞いて笑った。
「面白い経歴ですわね」
「はい、私自身はつまらない人間ですが」
 彼はここでジョークを言った。そこで一人の法衣に身を包んだ男が入って来た。
「おお、修道院長!」
 マッダレーナの父である伯爵がその法衣を着た男の姿を認めて声をあげた。
「伯爵、呼ばれに応じ参りました」
 修道院長は伯爵に笑顔で答えた。実は彼はマッダレーナとは縁者である。
「パリから来られたのですね」
「はい」
 彼は伯爵夫人に答えた。
「如何でしたか、ベルサイユの様子は」
「それですが」
 彼はここで表情を暗くした。
「何かあったのですか?」
「それが・・・・・・」
 明らかに何かがあった。その証拠に修道院長の顔はどんどん暗くなっていく。
 この時フランスの置かれている状況は厳しいものであった。財政は破綻し国王ルイ十六世には国政を舵取りする能力はなかった。そして貧富の差は隔絶たるものがあった。
 ここで問題となrのはフランスの土地である。欧州の土地は痩せている。欧州第一の農業国であるフランスですら常に餓死者を出していた。我が国はこの時江戸時代であったが三回大きな飢饉を経験している。宝暦、天明、天保の三回である。特に天明の時の東北の事情は悲惨としか言いようがない。だが一説には人口は殆ど減らなかったらしい。それだけの力が東北にもあったのである。
 だがフランスは違う。パリは東北よりも北にある。冬には豪雪が襲いセーヌ河は凍りつく時もある。それ程までの気候差があるのだ。東北には凍る河はない。雪はあっても全てを凍らせるものではない。
 フランスの豊作の時の餓死者はその天明の時の餓死者より多いのである。フランスの豊作とは当時の我が国では大飢饉であった。
 そうした状況でも貴族達は優雅に宴を開いている。今テーブルの上にある極上の葡萄酒や豪華な鴨や鹿の料理などとても庶民の口には入らない。
 こうした問題が何故放っておかれたか。誰も問題とは思っていなかったからである。その為ルイ十四世もベルサイユに宮殿を建てた。彼は別に国民から搾取しようともその生活を苦しめる為にそのような宮殿を建てたり優雅な生活を楽しんだわけではない。彼は自分自身を国家だと言った。国家は常に輝いていなくてはならない。彼も彼なりに国民を深く愛していた。そしてその期待に応えなければならないと常に思っていたのだ。
 それは貴族達も同じであった。彼等も自分の領地の民を愛してはいた。中には暴虐な人物もいたかも知れない。だがそのような輩は常にほんの一部である。そうした者ばかりなら歴史は実に単純に話が進む。もう読まなくてもよい程だ。だが歴史は悪意よりも善意や理想で動くものだ。それが現実にどのようにして変わるかは別として。
 そうした問題を問題を考える者が現われるようになった。俗に言う啓蒙思想である。それは知識人達の間に急激に広まっていった。
 しかしいささか現実と遊離した一面もないわけではなかった。ルターのいう『自然に帰れ』であるが現実には不可能である。その為この時代の啓蒙専制君主と呼ばれる者達、サンスーシーの隠者と呼ばれたプロイセンのフリードリヒ大王やロシアの女帝エカテリーナ、オーストリアの若き君主ヨーゼフ二世等であるがそれを実際に政治にとりいれようと試みたのはまだ若いヨーゼフ二世だけであった。だが彼は聡明であったのでその間違いにも気付いたか軌道修正をしている。他の二人は学問として学んだ程度である。
 しかしこの言葉が一人歩きしていく。共産主義にはこの言葉が残っていた。そして二十世紀それに影響された進歩的思想がルターとほぼ同じことを主張する。反文明、反文化である。それは悲劇となった。特にポル=ポトの狂気は人類の歴史に永遠に残るであろう。
 だがそうだからといって啓蒙思想が悪いわけではない。実際にその問題を知らしめし人々に見せたのであるから。ジェラールが好んで読んでいるのも彼等の書である。彼はなかなか学識のある男であった。
「あまりお話したくはないのですが」
 修道院長はそう言って話すのを拒もうとした。
「それはいけませんわ」
 伯爵夫人がそれを拒んだ。
「そうです、皆聞きたがっていますわよ」
 マッダレーナも言った。見れば他の客達もである。
 ただシェニエだけは違っていた。彼はそれを一人無表情のまま見ていた。
「よろしいですか?」
 修道院長は暗い顔のまま一同に問うた。
「是非お願いします」
 彼等は口々に言った。彼はそれを見て意を決した。
「後悔しませんね」
 彼はそれでもそう前置きした。
「ええ」
 一同は答えた。院長はそれを見て決めた。
「ではお話しましょう」
 見ればこの部屋にいる者全員集まっている。そして彼の話に耳を傾けている。
「王室の権威は近頃翳りが見られます」
「やはり」
「陛下に良くない忠告をした者がおりまして」
「ネッケルでしょうか?」
 誰かが尋ねた。財務長官である。
「それは残念ながら」
 院長はそこまでは言おうとしなかった。
「いえ、仰らずとも」
 誰かが言った。勘のいい者や宮廷に明るい者ならばすぐにわかることであった。
「私の口からはそれは言えません」
 院長はそれでも彼の名は言わなかった。
「そして第三階級ですが」
「彼等が!?」
 所謂庶民のことである。といっても議会にいるのは裕福な家の出身や啓蒙思想の影響を受けた者が多かったが。三部会といってもやはり文字の読める程度の知識がなければ出席も発言もままならなかったからである。当時のフランスの識字率は非常に低かった。
 こういった話がある。鉄仮面という男が牢獄に捕われていた。
 彼の正体についてはいまだに色々と議論されている。ルイ十四世の縁者ではないかという噂があるが定かではない。デュマは小説にもしている。だがこれはという確かなものはない。
 その鉄仮面が牢獄から一通の手紙を落とした。誰かに自らの身の上を知ってもらい助けてもらう為だ。その手紙を一人の漁師が拾った。
 すぐにその漁師のところに人が来た。何と鉄仮面が捕われている牢獄の監獄長自らやって来たのだ。
「御前は手紙の中身を見たか?」
 彼は怖い顔をしてその漁師を問い詰めた。
 左右には兵士達が控えている。剣呑な気配だ。
「いえ」
 漁師は答えた。
「読むも何も私は字が読めないものでして」
 それを聞いた監獄長はこう言って微笑んだ。
「御前は運がいい奴だ」
 彼がもし字が読めていたら確実に殺されていただろう。この漁師は思わぬところで命拾いをしたのだ。
「彼等は大変なことをしています」
「何をしているのですか?」
 皆院長の言葉から耳を離せない。
「あれは非常に怖ろしいことでした」
 彼はそれを話すのを躊躇していた。だが話さないわけにはいかなかった。
「何ですか、教えて下さい!」
 皆がそれを許さないのである。彼は止むを得ず話しはじめた。
「アンリ四世陛下の像が汚されました」
「何と怖ろしいことを・・・・・・」
 アンリ四世とはこのブルボン朝の創始者である。ヴァロワ家が断絶したのでその縁者である彼があとを継いだのである。この時代彼は神にも等しい存在であった。
「彼等は神をも怖れぬのでしょうか」
「はい、彼等の中には神を否定している者もおります」
「信じられない・・・・・・」
 この時代から無神論者もそれを主張するようになった。フリードリヒ大王もそうであったが特にこの時にフランスの啓蒙思想家には多かった。
「では彼等は何を信じているのでしょう」
「理性だと彼等は言います」
「そんなものが何の役に立つと・・・・・・」
 それを聞いたシェニエは少し目を向けた。何か言いたげであったが誰も気付かなかったしシェニエ自身も人にまで聞かせるつもりはなかった。
「まあ深刻な話はそれまでにしましょう。折角の宴なのですし」
 院長はそこで話を強引に打ち切ってしまった。
「フレヴィルさん、貴方もそう思うでしょう?」
 そしてそうした場を盛り上げることに慣れているフレヴィルに話を振った。
「ええ」
 彼は微笑んでそれに応えた。そして皆の前に出て来た。
「皆さん、今日は折角お来しいただいたのです。存分に楽しみましょう!」
 そう言うと指を鳴らした。すると若い羊飼いの姿をした少女達が出て来た。
「これは私の余興です。太陽と花々の中羊飼い達の歌う牧歌を聴こうではありませんか!」
 当時田園風の別荘や音楽が貴族達に親しまれていた。華やかな宴だけでは人の心は癒されない。そうしたものも必要なのであった。
 少年達も姿を現わした。フレヴィルは彼等の中央に立った。
「さあ皆さん、お聴き下さい、清らかな牧童達の声を」
 そう言うと子供達は歌いはじめた。綺麗な声をしている。特に少年達のそれは素晴らしかった。
 カストラートという。声変わりの前に去勢してその声を保った歌手である。彼等はそれであったのだ。
 このカストラートがバロック、そしてロココの時代の音楽を支えた。特に有名なのはファルネッリであるがその他にも大勢の有名なカストラートがいた。
 モンデヴェルディもモーツァルトも彼等の為に曲を作った。そしてそれは今でも残っている。ロッシーニもカストラートの音楽を愛した。後にワーグナーはカストラートを参考にして自作の楽劇に不思議な声を発するバスの役を出している。カストラートのいない今ではメゾソプラノやカウンターテノールにより歌われている。今もなお彼等の素晴らしい芸術は生きているのである。人権やそうしたものとは別の次元の話である。
「何と素晴らしい」
 流石はその名を知られた人物である。フレヴィルの歌はそこにいる全ての者を魅了し感動させた。それが終わった時彼は拍手の嵐に包まれた。
「いや、素晴らしい」
 先程まで陰鬱な表情に陥っていた院長が満面に笑みを浮かべて握手を求めてきた。
「気に入っていただけたようですね」
 フレヴィルは彼の顔を見て言った。
「当然ですよ。噂に聞いただけはあります」
「本当に。まさかこれ程までとは」
 人々は口々に彼を称えた。
「いえいえ、そんなによかったとは自分では思っていませんが」
 彼は謙遜の言葉を口にしたがその顔には会心の笑みがあった。
「本当にお見事でしたわ」
 マッダレーナも賛辞の言葉を送った。
「ところで」
 そしてシェニエに顔を向けた。
「今度は詩をお聞きしたいのですが」
 彼に対して詩を所望した。
「生憎今は思い浮かびません」
「あら、どうしてですか?」
「才能がないものでして」
「あら、ご謙遜を」
「今はミューズの声が届かないのですよ」
 彼は微笑んで答えた。
「ははは、彼はいつもこう言うのですよ」
 ここでフレヴィルがマッダレーナに対して言った。
「偏屈なところがありまして。それにありふれたものに対しては心を動かさないですし」
「なあ、そうですの」
「私のミューズは身持ちが固いのです」
 シェニエは軽く受け流すように言った。
「それは一理ありますな」
 ここでフィオリネルリが入ってきた。
「あまりにも力をお与えになるミューズはあまり有り難くありません」
「よくわかっておられますね」
 シェニエはそれを聞いて答えた。
「けれど残念ですわ」
 マッダレーナはそれを聞き口を少し尖らせた。
「折角素晴らしい詩が聞けると思いましたのに」
 彼女は芸術へは関心が高かった。だからこそフレヴィルの歌にも素直に感動したのだ。
「では私今から貴方と勝負致します」
「私とですか?」
 シェニエはそれを聞いて眉を少し上に上げた。
「はい。貴方に詩を謳ってもらいます」
「おお、それは面白い勝負ですね」
 フィオリネルリはそれを聞いて声をあげた。
「そう思われるでしょう?ならば」
 フィオリネルリに対して顔を向けて微笑んだあとシェニエに顔を戻した。
「勝負を申し込みますわ」
「おやおや」
 それを聞いた伯爵夫人と他の客達は少し呆れたような声を出した。
「ならば私は」
 フィオリネルリは伯爵夫人に何かを言った。
「わかりましたわ」
 彼女はそれを聞くと優雅に微笑んで側の者に対して何かを告げた。
 その者は頷くと何処かへ消えた。そして暫くして楽器を持って来た。バイオリンだ。
「どうぞ」
「有り難うございます」
 フィオリネルリは笑顔で礼を言うとその楽器を手にとった。そして構えた。
「それでは私は」
 それを見たフレヴィルも動いた。
「その勝負の立会人となりましょうか」
 そう言って二人の中間に立った。
「同じ芸術を愛する者として」
「では貴方へ突きつける一撃目は」
 マッダレーナは芝居がかった言葉をシェニエに向けた。
「田園ものをお聞きしたいですわね」
 当時のフランス貴族の間で流行った詩のジャンルの一つである。その田園風の別荘と共にロココを代表するジャンルであった。
「田園ものですか」
「如何でして?それが駄目でしたら」
 マッダレーナは言葉を続けた。
「尼僧か花嫁に捧げる愛の詩でもいいですわよ」
 これも当時の詩の定番であった。
「ふむ」
 シェニエはそれを聞いて考える顔をした。
「マドモアゼル」
 そして彼は表情を元に戻すとマッダレーナに対して言った。
「大変有り難い申し出ですが詩情というのは指図や求めに応じて出て来るものではありません」
「あら」
 マッダレーナはそれを聞いて悪戯っぽく答えた。
「詩情とは何時出て来るか全くわからないものなのです。大変気紛れです。そう」
 彼はここで言葉を一旦とぎった。
「恋のように」
「うふふ、恋みたいにですか!?」
 マッダレーナはそれを聞いて思わず笑ってしまった。
「そうです、詩とは恋なのです」
 だがシェニエはそれに腹を立てるわけでもなく真面目に答えた。
「それでしたら私にも詩を作れるということになりますわよ」
「その通りです」
 やはりシェニエは冷静なままである。
「誰もがその胸の中に詩を持っているのです」
「そうなのかしら」
 マッダレーナはそれを聞いて違和感を覚えた。 
 彼女は詩は芸術だと思っている。それは限られた人だけが持ち得るものなのだ、少なくとも彼女はそう考えている。だがシェニエは違うようだ。彼はそれは誰もが持っているものだと言う。
「それでしたら」
 彼女はここで意地の悪い質問をすることにした。
「誰でも、そう例え異教徒ですらも詩を作ることができると仰るのですか?」
「当然です」
「何と・・・・・・」
 皆それを聞いて少しざわついた。
「私はコンスタンチノープルで生まれました」
 あえてキリスト教風の呼び方で街を呼んだ。
「そこで私は多くの美しいものを見ました」
「本当ですか!?」
 マッダレーナはそれを聞き驚いた。実は彼女はフランスから一歩も出たことはなかったのである。
「はい。そして多くの美しい詩も知りました」
 昔からイスラムでも詩は深く愛されてきた。宮廷詩人フィルドゥーシーもいた。だがそれをキリスト教徒達は偏見により見過ごしていたのだ。フランスの民話ではイスラム教徒達は皆野蛮で残忍なものとして書かれている。だがこれこそが偏見なのだ。実際はむしろ彼等の方が野蛮で残忍であった。十字軍もそうであったし異端審問のような酸鼻を極めるおぞましい組織もあった。少なくともイスラム教徒達はそのようなことはしない。
「嘘みたい」
「嘘ではありませんよ、マドモアゼル」
 シェニエは疑おうとする彼女に対して言った。
「その証拠に遠く中国の詩も我々は愛しているではありませんか」
 この時代にも漢詩は伝わっていた。そしてそれを知る人々はそれを愛した。
「人の心は皆同じなのです。たとえ貴族でも庶民でも」
「そんな筈は・・・・・・」
 ここにいる者達は皆貴族である。青い血が流れる者達である。その彼等が自分達を庶民と同じと言われて気分がいい筈がなかった。
「それはいづれわかることです。必ず」
「・・・・・・・・・」
 皆その言葉に沈黙した。そして先程の修道院長の言葉を思い出した。
「怖れることはありませんよ。真実というものは必ず明らかになるものなのです」
 彼はそう断ったうえで話を続けた。
「私は神を信じます。ですが」
 その言葉はまるでそこにいる者達の心に対して語りかけているようであった。
「その神は束縛を好まれません。愛と自由を好まれるのです」
「愛と・・・・・・」
「自由を」
 皆その言葉を繰り返した。マッダレーナもである。
「はい、それこそが神の教えです」
 シェニエはそう言って微笑んだ。
「その神は時として私に授けて下さるものがあります」
「それは?」
「それはミューズを通して授けられます。それこそが詩情なのです」
「そうなのですか」
「はい、そして今それが授けられました」
 シェニエは穏やかな声で言った。
「それを今から皆さんにお伝えしましょう。神の授けて下さったものを」
 そう言うとゆっくりと構えた。左手の拳を胸に持って来たのだ。
「ある日私は青い空に見惚れていました」
 彼は詩を口にしだした。
「スミレの花が咲き誇り太陽の黄金色の雨が降り注ぐ中見ていました」
 詩を続ける。
「大地はその恵みを受けた巨大な宝であり空はそれを包んでいます。それについて考えていた時大地が私にあるものを授けてくれました」
「それ何でしょうか?」
 人々は問うた。
「それこそが愛でした。そして大地は私に教えてくれたのです。私が愛し、愛するものはこの美しい祖国であると」
「祖国・・・・・・」
「はい。私はコンスタンチノープルで生まれました。しかし心はフランスに常にありました」
 彼は言った。確かに母はフランス人ではない。だが彼の心はフランスのものであったのだ。
「そう教えられた私は教会に向かいました。そう、その祖国と、そしてそれを守り給う神に祈りと感謝を捧げる為に」
「神に」
「はい、ですが私はそこであるものを見ました」
「それは!?」
「それは醜い光景でした。着飾った司祭は神に捧げ物をしていました。ですが教会の横で老人がパンを求めて震える手を差し出しているのには目もくれていなかったのです」
「それは私達のことか」
 修道院長と他の僧侶たちはそれを聞き顔を青くさせた。シェニエはそれに構わず詩を続けた。
「次に私はあばら家の敷居を幾つかまたぎました。その中でも皆働いていました。皆みすぼらしい格好をしておりました」
「何と・・・・・・」
「私は聞きました、彼等の声を」
「彼等は何と言っていましたか!?」
 人々は問うた。
「彼等は叫んでいました、そして泣いていました。幾ら働いても国の懐が食い潰してしまうと。神を罵り、自らの持つ地を罵っておりました」
「それはまさか・・・・・・」
 何人かは気付いた。それは今のフランスの民衆なのだと。
「ですが青い血の人々は今何処にいるでしょうか?マドモアゼル」
 そしてマッダレーナに顔を向けた。
「私は貴女の眼に天使を見ました。澄んだ純粋な憐れみを」
「純粋な憐れみ・・・・・・」
 マッダレーナはその言葉を繰り返した。
「そうです、私は貴女の中にそれを見ました」
 シェニエは優しい声で言った。
「どうか私の言うことを軽蔑しないでいただきたい。そして愛を知るのです」
「愛を・・・・・・」
「そうです、貴女は愛をまだ知らない。それはこの世で最も尊いものなのです」
「それはよく聞きますが」
「聞くだけでは駄目なのです、感じられるようにならないと。愛とは神がお与えになるものでこの世の全てなのです!」
 彼は最後は少し叫んでいた。マッダレーナはそれに言葉を失った。
「マッダレーナ」
 伯爵夫人がそんな娘に声をかけた。
「あ、はい」
 彼女はその言葉に我に返った。
「少し休んでらっしゃい」
 そして娘に席を外すよう言った。
「わかりました」
 彼女はそれに頷くとその場をあとにした。
「やれやれ、まだまだ夢見る年頃ね」
 彼女は母親の顔でそれを見ていた。
「愛を知らないなんて。愛とはそれはそれは美しいものなのに」
「・・・・・・・・・」
 シェニエは彼女にも何か言いたそうであったが言わなかった。そこでガヴォットの前奏が聞こえてきた。
「さあ皆さん、今度はガヴォットですわよ」
 伯爵夫人は客人達に対して言った。
「宴に相応しい陽気なガヴォットを。皆さん、今夜は踊りあかしましょう!」
「はい!」
 皆立ち上がった。そしてそれぞれペアを組むと踊りの輪を作ろうとした。その時だった。
 不意に騒ぎ声が聞こえてきた。
「あれは!?」
 皆踊りを中断した。ガヴォットも止み皆その声に耳を向けた。それは人々の声であった。
「昼も夜もない、いつも俺達は飢えて苦しんでいる」
 何か呪詛するような声が聞こえてきた。
「ここにも波が押し寄せてきたか」
 シェニエはそれを聞いて呟いた。
「お偉い方々が酒と御馳走に囲まれている時に俺達は冷たくて固い一欠けらのパンをかじっている。そして明日は水しかないという毎日さ」
 それはあきらかに貴族達を呪詛する声であった。声は次第に近付いて来る。
「これは一体何事ですか!?」
 伯爵夫人は血相を変えてやってきた家令に対して問うた。
「はあ、実は・・・・・・」
 家令は真っ青になっている。その言葉もしどろもどろだ。
 そうこうしている間に声はすぐ側までやって来た。扉を開き中に入った。
 それは民衆達であった。彼等はみすぼらしい服を身に纏い貴族達を恨めしい目で見ている。
 その先頭にはジェラールがいた。彼は憎悪に満ちた目で貴族達を見据えている。
「ジェラール、これはどういうことですか!?」
 伯爵夫人は彼を睨みつけて問うた。
「彼等の姿を御覧下さい」
 ジェラールは主人に対して言った。強い声で。
「私は彼等の声を聞いたのです。真の人々の声を」
「確かに」
 シェニエはそれを聞いて呟いた。
「今まで貴女に与えられた服も、パンも忌まわしいものだった。私は奴隷ではない」
「私が貴女を何時奴隷だと言いました!?」
 彼女には身に覚えのないものだった。怒りで顔を青くして問うた。
「その鈍い心ではおわかりになりますまい、永遠に」
 ジェラールはそれに対し言い切った。そこに使用人達がやって来た。
「同志達よ、君達もこのままでよいのか」
 だが彼は自らを追い出そうとした同僚達に対して逆に問うた。
「え・・・・・・」
 彼等はそれを聞き思わず立ち止まった。
「君達は奴隷のままでいいのか、人間なら自らの足で立ち自らの手でものを掴みたくはないのか!?」
「それはどういう意味だ!?」
 だが彼等にはジェラールの言っていることがわからなかった。ジェラールはそれに失望するかに思えたが違った。
「いずれ君達にもわかる」
「かなり一途な男だな」
 シェニエはそれを見て再び呟いた。
「だが少し視野が狭いな。それが危険だ」
 しかしその言葉はジェラールの耳には入らない。そこへ一人の老人がやって来た。
「カルロ、よさないか」
 それはジェラールの年老いた父であった。
「御前はどうかしている。今までの御主人様や奥方様のご恩を忘れるとは何事だ」
 その声は弱々しいものであった。
「お父さん」
 彼は父を見て優しい声で言った。
「一緒に行きましょう、人間としての正しい道を。我々は今から新しい世界に足を踏み入れるのです」
「何を言っておるのだ、馬鹿なことは言うでない」
「馬鹿なことではありません、私は正気です。その証拠に見て下さい、この欺瞞に満ちた世界を」
 彼はそう言うと父にこのシャンデリラに照らされた部屋を見せた。
「民衆が飢えて死んでいくのにここにはこれだけの酒と食べ物がある。そして光が灯り宴が連日連夜繰り広げられている。これを欺瞞、いえ背徳と言わずして何と言いましょう」
「・・・・・・・・・」
 父は答えられなかった。ジェラールはそんな父に対し言葉を続けた。
「そうした世界が終わる時が来たのです。我々は今その世界から解き放たれたのです」
「だが一歩間違えればその足は地獄に向かう」
 シェニエの独り言は誰の耳にも入らない。だがもし誰かが聞いていたとしてもその意味はわからなかったであろう。
「その証がこれだ!」
 ジェラールはそう言うと自らの着ていた制服の上着を脱いだ。そして床に叩き付けた。
「今から俺の着る服はこれだ!」
 そして民衆の貧しい服をかわりに纏った。
「忌まわしい束縛よ、消えてなくなれ!俺は自由と平等にこの身を捧げる!」
「そうだそうだ、俺達も!」
 民衆はジェラールの言葉に賛同した。ジェラールはそれを聞き彼等に顔を向けた。
「諸君、では行くとしよう。自由と平等が支配する理想の世界へ!」
「おお!」
 彼等は叫んだ。そしてジェラールと共にその場をあとにした。
「何ということ・・・・・・」
 伯爵夫人は蒼白になったままその場に崩れ落ちた。
「何が不満だというの!?」
 彼女は魂が抜けたような声で呟いた。
「食べ物は白いパンだったし文字も教えてあげた」
 当時白パンは御馳走であった。庶民の食事といえば黒く固いパンであった。そして文字も当然読めなかった。
「だから本も読めたというのに」
 それは事実だろう。だが彼はその施しを憎んでいたのだ。
「だから恥ずかしい思いをせずに済んだのに。思いやりのしるしとして服まで与えたというのに」
 服もである。精々ニ三着持っていれば贅沢であった。食べるものにすら事欠いているのだから。
「それを忘れて何故あのようなことを・・・・・・。私の何処が不満だというの!?」
「この人にはおそらくわからないだろうな」
 シェニエは彼女を見ながら呟いた。
「いずれわかる時が来るかも知れない。だが来ないかも知れない。それだけは神が定め給もうものだ」
 彼は新教徒めいたことを言った。
「あのジェラールというものは神の御教えを先に知ったのだ」
 そしてジェラールが行った方へ顔を向けた。
「あの若々しい心がこれからの世界を変えていくだろう」
 その言葉は予言めいたものであった。
「しかし」
 シェニエはここで言葉をとぎらせた。そして再び口を開いた。
「その心が何処へ行くかまでは誰にもわからない。神以外は」
 どうやら予定説の影響を受けているようだ。これもフランスの外でうまれそだったせいであろうか。
「その行く道は一つではない。中には恐るべき地獄の道もある」
 彼はそこである人物のことを思い出した。
「ロベスピエールといったな」
 若い男である。法律家の家に生まれたが幼くして両親をなくし苦学しながら弟や妹達を養った。そして今やフランスにその名を知られようとしている情熱的な政治家である。
 シェニエはその人となりに悪い印象は受けなかった。生真面目であり清廉だった。だがそこに彼はロベスピエールの持つ危険性を感じ取っていた。
「人は時として不浄なものも知らなければならない」
 それは詩人というより哲学者の言葉であった。
「さもないとその不浄がどういうものか、そしてそれより怖ろしいものについて無知になってしまう」
 この言葉を知らない者も多い。ロベスピエールもそうであるし今ここを去ったジェラールもそうだ。彼等が求めているのは絶対的な正義なのだ。神ではないが神性を持つものなのだ。
「彼等がオリバー=クロムウェルを知っていればよいが」
 そして宿敵の国に生まれた一人の男の名を口にした。
 オリバー=クロムウェル。ケンブリッジで宗教を学んだ男である。軍人として優秀であり清教徒革命においてニューモデル軍を率いて王党派の軍を散々に打ち破った。そして革命後国王を処刑し反対派を弾圧し自ら護国卿となった。
 彼もまた清廉潔白で自らに対し厳格であった。だがそれは他者に対する絶対的な不寛容ともなったのである。
 彼にとって清教徒の価値観こそが全てであった。それにそぐわぬ者は皆敵であった。
 法にない国王の処刑もそこに根拠があった。自らに逆らう者達も。旧教徒も。その為アイルランドを侵略した。彼にとって旧教徒は敵でしかなかった。
 その政治は圧政であった。日常の生活にまで細かく口を挟み英国は鉄の鎖に束縛された国となった。それは彼の死去まで続いた。
「あのようにならなければよいが。いや」
 彼はここで危惧を覚えた。
「より怖ろしいものになるかも知れない」
 不幸にしてその危惧は的中する。
 だがそれをこの時知っているのは誰もいなかった。伯爵夫人はようやく起き上がり家令に声をかけた。
「もう行ってしまいましたね?」
 ジェラール達のことを問うた。
「はい。如何致しましょう」
「・・・・・・放っておきなさい」
 彼女は沈んだ声で言った。
「それよりも宴を再開しましょう」
「わかりました」
 こうして宴は再開された。だがそれは暗く沈んだものになってしまっていた。



今回の物語はフランスが舞台みたいだね。
美姫 「ジェラールとシェニエ、それとマッダレーナを中心としたお話かしら」
多分、その三人のお話かな。
美姫 「これからどうなるのかしらね」
うんうん。一体、どうなるんだろうな。
さしあたっては、ジェラールの行動かな?
美姫 「う〜ん、次回も楽しみね」
本当に。一体、どうなるのか。
美姫 「次回も楽しみにお待ちしてます」
ではでは。



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